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2009年7月31日 (金)

平均寿命、屁でも食らえ

最近、厚労省から平均寿命が発表された。

日本人の女性は、86.05歳であり、

日本人の男性は、79.29歳である。

                      

この「平均」というものに惑わされる必要はない。

あと何年生きられるかは、それぞれの人によって異なる。

重要なことは、何年生きられるかよりも、楽しく充実した生き方をすることだ。

                  

楽しく充実した人生を送るには、元気なうちは、死ぬ時期は相当将来がいい。

今、77歳の男性だとすれば、43年後の120歳を死ぬ時期と考えればいい。

まだ、40年以上の人生があるとすれば、やりたいことをじっくりやれる。

77歳にして、人生はこれからだ、と考えることもできる。

          、

それを、平均寿命に捉われて、あと数年の寿命か、と考えるとどうなるだろう。

多くの人は、生きる元気が急になくなってくるのではないだろうか。

どうせ生きるのであれば、元気に、楽しく生きたほうがいいに決まっている。

そうであれば、「平均寿命、屁でも食らえ」ぐらいの啖呵を切ったほうがいい。

                   

重要なのは、自分の人生である。

平均の数字が、自分を元気にするものであれば、その数字を使えばいい。

でも、平均の数字が自分の元気を奪うものなら、その数字を切り捨てればいい。

自分の人生を楽しいものにするには、元気を奪うものを受け入れてはならない。

                  

自分の人生に責任を持つのは自分以外いない。

自分の人生に元気を与えてくれるものは、素直に受け入れる。

自分の人生の元気を奪うものは、断固として、受け入れを拒否する。

そうすることで、自分らしい楽しい人生が築けるのである。

           

人生にとって重要なのは、「平均」寿命の情報ではなく、

その受け止め方なのである。

楽しい人生を送りたいのなら、新聞記事の読み方にも注意が必要なのである。

                                   

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2009年7月30日 (木)

おもてなしの心を味わった

                               

昨夜は、「八雁(はちかり)」という銀座5丁目にある店で食事をした。

正確に言えば、食事兼取材をしたのである。

今年の5月から「鳥飼タイムズ」という広報誌を発行している。

その第2号を、9月末ごろに発行するので、その取材のためである。

                 

「鳥飼タイムス」の最終ページに、「私の三ツ星レストラン」という欄がある。

その欄は、本当に美味しいと思った店を紹介しようというものである。

「八雁」は、以前にも、このブログで紹介したこともある店である。

料理の美味しさもあるが、「おもてなしの心」を実感できる店なのである。

                

私が説明するよりも、昨日のメニューを紹介した方がいいだろう。

昨日の料理は、「世界にひとつしかない」メニューなのである。

そこに、おもてなしの心が込められている。

メニューそのものを紹介しよう。

                    

「お献立      鳥飼様

トマトの煮こごり

胡麻豆富

青大豆の呉汁

まこかれい 小肌 煮蛤

野菜の富貴寄せ

鮎炭火焼 イベリコ豚

野菜のオセロ

姫韮のかき揚げ

ジャガ芋の天婦羅

蒸し鮑とじゅん菜

玉蜀黍(トウモロコシ)のご飯

かき氷

                八 雁

         2009年7月29日

             秋山 能久 」          

                

このメニューは、世界に唯ひとつしかないものである。        

しかも、それぞれの料理を、我々の目の前で調理してもらえる。

我々、1組のために、料理長がすべて料理してくれる。

豊潤な空間であり、贅沢な時間でもある。

            

一品ごとに工夫があり、納得できる味わいがある。

取材のため、複数の女性に同行をお願いし、賞味してもっらったが、

一品ごとに感動の声があがり、騒がしいほどの会話に発展した。

          

「胡麻豆富」は、長時間かけて創られた絶品の味。          

「野菜の富貴寄せ」は、16種類の野菜を1種類ごとにしっかり調理しているもの。

「鮎炭火焼」の鮎は、吉野川のもので、頭から丸ごと食べられる本物であった。

        

「野菜のオセロ」は、8種類の品を、16面のオセロ版のような皿に載せたもの。

この料理は、八雁の下の階にある「六雁」という店の料理メニューである。

同じ経営者の店なので、取材のため、特にメニューに入れてもらった。

        

「姫韮のかき揚げ」「ジャガ芋の天婦羅」は、私の母の思い出の料理。

私の思い出を再現してくれた料理である。

文字通り、「世界にひとつしかない」、私用の料理なのである。

               

ほかの料理にも、それぞれの工夫がある。

「かき氷」という字だけ見ると、おもてなしの心は伝わらないだろう。

しかし、実際の「かき氷」とそれにかける食材を見れば、工夫に驚く。

             

実際、同席した女性たちは、大騒ぎであった。

女房を含めて皆、相当な年齢なのに、少女時代に戻ったようように、大はしゃぎ。

取材は、どこかに飛んでいった感じである。

               

日本人に特有の細やかな心遣い。

そこから「おもてなしの心」を味わえる。

これが最高の贅沢であると感じた。

         

世界にひとつの、そして、最高の美味しさを下さった料理長の秋山さん、

心配りの行き届いた接客をしてくれた大塚さん、

おふたりの、「おもてなしの心」に感謝します。           

                            

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2009年7月29日 (水)

人生は、自分で創れるのだろうか?

人生は、自分の考えで創れるのか?

このブログは、人生は創れる、という考え方で書いている。

私自身、そう実感しているからである。

             

確かに、人間は、生まれつき、生きている環境に左右される。

生まれ育った環境の違いは、その後の人生に大きな影響を与える。

良い環境に生まれ育っている方が、劣悪な環境で生まれ育つよりも、

いい人生を送れる可能性は大きい。

                    

ただ、人間の本来の姿という高い地点から眺めると、違った見方ができる。

生まれ育った環境の違いは、ほとんど差がないということである。

むしろ、悪い環境で生まれ育った方が、悪い環境をばねにして、

より豊かな人生を送れる可能性があるからである。

                       

典型的には、松下幸之助翁の例がそうだ。

劣悪な環境で生まれ育ち、しかも、本人は病弱であったが、

人間の可能性の高さに気づき、経営の本質を体得して大成した。

                      

このように、悪い環境の中から成功者になった実例は、世の中には多い。

このような実例は多いといえども、社会の全体から見れば、稀なものである。

社会の多数派が創る経験則によれば、環境が人生を左右することになる。

この経験則によれば、松下幸之助翁の例は、例外的なものになる。

                    

しかし、社会の多数派の創る経験則が正しいとは限らない。

むしろ、人間の本質から導かれる原理原則の方が正しいのではないのか。

多くの人は、社会の経験則にしたがって生きるため、環境に縛られる人生となる。

少数の人達が、原理原則を信じて生きるために、環境を克服する人生となる。

                       

重要なのは、人生を楽しく生き、後悔のない人生を送りたいかである。

そうであれば、生まれ育った環境に思い煩うことなく、

自分で自分の人生を創ればいい。

それは、人間の原理原則からすれば、可能だからである。

                      

今後も、人生は創れる、という視点から、このブログを書いていきたい。

             

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2009年7月28日 (火)

「5年間の挫折と苦しみがなければ・・・」

「5年間の挫折と苦しみがなければ、

この日はやって来なかった。

僕は心からそう思えるようになった。」

       

この言葉は、俳優の加山雄三さんのものである。

今、日本経済新聞に連載中(7月27日)の「私の履歴書」にある。

5年間の挫折と苦しみとは、1970年から1975年の間のことを言っている。

           

若大将シリーズで、人気を博していた1960年代が終わり、

1970年代には、人気が凋落し、仕事が減っていった。

それに追い討ちをかけるように、70年に大切な母親が逝去する。

さらに、叔父の経営するホテルの倒産に巻き込まれる。

                 

その結果、膨大な借金を負い、税金の滞納で収入の大半は差し押さえられる。

このような状態の中での結婚生活のスタート。

さらに、祖母の死、スキー場で圧雪車に引かれて重症を負う。

まさに、ドラマチックなストーリーの実話なのである。

                 

このような苦しい5年間を経て、加山さんは復活を遂げる。

人気ドラマへの出演し、ヒット曲も生まれるようになったのである。

76年の12月の日本武道館での公演は満員となったという。

このような復活についての感慨、それが最初の言葉なのである。

              

加山さんのテレビ出演で、今でも、鮮明に覚えているものがある。

加山さんがホテルの総支配人役のドラマだった。

そのドラマの主題歌が、さだまさしさんの歌う「天までとどけ」である。

最近、カラオケで、この歌を歌うことが多くなった。

               

「出会いはいつでも   偶然の風の中

きらめく君  僕の前に 緩やかに立ち止まる

懐かしい風景に     再びめぐりあえた

そんな気がする 君の胸に  遥かな故郷の風

舞い上がれ風船の   憧れのように

ふたりの明日      天までとどけ」

                

「5年間の挫折と苦しみがなければ」

この言葉に、自分の人生を重ね合わせる人も多いだろう。

私も、そのひとりである。

          

私の場合は、もっと長い挫折の期間があった。

それでも、その期間を乗り越えれば、人生の素晴らしさを実感できる。

挫折や苦しみは、実感を伴った大きな喜びに変わるのである。

人生、捨てたものではない、これだけは間違いのないことである。

          

               

                     

               

              

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2009年7月27日 (月)

楽しい人生には、羅針盤が必要

9月中に、「楽しい人生を送る」ための小冊子を出すことにしている。

毎日、少しづつ、その原稿を書いていたが、今朝、やっと終わった。

全部で、21の項目を取り上げて、項目にそった文章を書いた。

               

楽しみながら書いた、というのが本当であろう。

項目を取り上げると、納得していただけるかもしれない。                                  

     

「『まだまだ』と思うのが人生の奥義」

「幸福のもと、成功のもとは何か?」

「人生を変える魔法の言葉」

             

以上は、思わせぶりな題になっている。

以下は素直な題になっている。

「寝るときの習慣で幸福が訪れる」

「信じることから人生が始まる」

「小さな積み重ねが、人生を大きく変える」

              

自分や社会の人達の人生をいかに楽しいものにするか?

それが私のライフワークであるから、人生を考えるのは楽しい。

「楽しく」という自分の考える方向が、楽しさをもたらすからである。

                 

人生は、自分が持っている羅針盤によって決まる。

「苦しみ」の羅針盤は、苦しい方向に人生を導く。

「そこそこ」の羅針盤は、そこそこの人生を与えてくれる。

「人並み」の羅針盤は、人並みの人生を送らせてくれる。

                          

羅針盤を持たない場合には、どういう人生になるのであろうか?

自分の置かれた環境次第、あるいは、その時々の自分の気分次第で、

いきあたりばったりの迷走した人生になるのは確実である。

               

このような人生を送るために、我々は生まれてきたとは思えない。

生まれるのは、確率的に言えば、奇跡そのものだからである。

奇跡が生んだ我々の人生が、迷走したのでは奇跡に値しない生き方である。

                      

このような生き方をしないためには、自分らしい羅針盤をもつことだ。

そのためには、もっと、人間のこと、自分のことを知る必要がある。

                  

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2009年7月26日 (日)

隅田川の花火大会で、伝統の継承者を見た

昨夜は、隅田川の花火大会を見物した。

この花火大会は、270年以上の伝統をもっている。

1733年に、8代将軍吉宗が両国の川開きと同時に行ったのが初めてらしい。

悪霊退治とコレラの流行による死者への慰霊のために行なったという。

                

その意味では、江戸の情緒をもった行事が花火大会とも言えそうだ。

こう考えると、花火は日本固有のものと思いがちになるが、そうではないらしい。

花火は、黒色火薬を発明した中国に始まり、ヨーロッパで広まったからだ。                 

                  

いずれにしても、花火大会は、人類・日本人の伝統を伝える行事なのである。

花火の華麗さ・豪快さを見て、それに酔いしれるのも素晴らしいことだ。

でも、打ち上げられる花火の中に、時空を超えたものを感じるのもいいものだ。

                             

自分が長い人類・日本の歴史の中に生きている。

そのことを実感できる瞬間かもしれない。

徳川家康公、伊達正宗公、将軍吉宗も見たという花火を我々も見ている。

花火を見て何を思うか、人それぞれの感慨があるだろう。

           

昨年は、隅田川の花火大会は、第一会場の桜橋の近くのビルの屋上で見た。

第一会場で見る花火は、花火のもつ華やかさを実感できる。

           

今年は、第二会場である駒形橋の近くのビルの屋上で見た。

顧問先のお陰で、第二会場での打ち上げを真下に見る位置で見物できた。

第二会場で見る花火は、花火の持つ豪快さを実感した。

そう感じるのは、見る位置の近さと短い時間で1万発超を打ち上げるからだろうか。

                                        

この顧問先も、花火大会の伝統の継承者なのかもしれない。                  

多くのゲストを招待し、隅田川の花火大会の素晴らしさを伝えようとしているからだ。

文字通り、社員総出で、我々を接待している姿には頭が下がる思いがする。

                 

しかも、花火の始まる前に、三宅裕司さんの司会でグッチ裕三ショーがあった。

この笑いっぱなしのショーも、花火大会の盛り上げ役になっている気がした。

すべて、花火大会が主役なのであるから、力の入れ方が半端でない。

伝統は、このような半端でない人たちによって受け継がれていくのだろう。                      

                      

                      

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2009年7月24日 (金)

人生の考え方も、経営の考え方も同じ

昨日は、名古屋で、新任取締役等に対して、講演をした。

一昨日は、東京で、新任取締役等に対して、講演をした。

このような経営者対象の講義では、経営的視点から話すことにしている。

              

法律実務家的な用語を経営者の用語に置き換えて話しをするのである。

コンプライアンス、コーポレートガバナンス、内部統制を法律実務家的でなく、

普通の経営者の用語に翻訳して説明することになる。

              

経営者は、企業を存続させ、成長させるための役割を担う。

そのため、人と社会をよりよくするために役に立つ経営をする必要がある。

基本的には、経営者の自律心こそが経営の核となっているのである。

       

ところが、コンプライアンス・コーポレートガバナンスは、他律的規律である。

そのため、経営の本来である自律を抑制する意味に理解されがちになる。

これでは、企業が人と社会をよりよくする点が置き捨てられる可能性がある。

つまり、経営者の元気を失わせて、成長から遠ざかることになる。

               

元気が出ない経営者では、企業は成長しないから、元気を出せるように、

コンプライアンス等の他律型概念を元気の出る方向で捉えなおす必要がある。

コンプライアンス、内部統制も、企業の儲けに直結するものと捉えなおすのである。

このような考え方は、従来の企業法務から見れば、異端なことかもしれない。

               

でも、経営者を元気にして、企業を成長させる観点を欠いては、

講義の実践的な意味がないように思っている。

法律だから強制されると思いがちであるが、それを捉えなおせば、

法律の強制から解放されて、経営者は本来の元気を取り戻せるのである。

              

コンプライアンスを法律の観点から捉えるのと、

経営の観点から捉えるのとでは、まったく捉え方が違ってくる。

経営の観点には、成長は必須の要素になるが、法律の観点ではそうではない。

その結果、観点の違いから、実際の効用が異なってくるのである。

             

人生も、考え方一つで、幸福にもなり、不幸にもなる。

企業も同じであり、経営者の考え方一つで、成長もし、衰退もする。

そこで、私の講義では、企業の成長につながる考え方を提示している。

その点を、講義を聞いてくださった経営者に伝わっていただろうか。                              

               

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2009年7月23日 (木)

「まだまだ」と「もう」の言葉の違いは、小さいか、大きいか?

「『まだ』は、『もう』なり」という。

株価が上昇する局面で、もっと株価は上がるだろう、と甘い期待を持つ。

そのために、『まだ』と思いがちになるが、その期待は裏切られやすい。

そこで、『もう』と思って株を売ることを勧める株相場の格言である。

     

このような株と違った意味で、「まだまだ」と「もう」の言葉の違いが人生を変える。

株の世界では、予測が困難な相場を相手にする場面で「まだ」と「もう」が使われる。

しかし、人生では、必然的な意味をもつのが「まだ」と「もう」という言葉である。

                    

「まだまだ」という言葉は、未来の希望に向かって生きる力をもっている。

失敗があっても、困難があっても、挫けない考え方を示しているからだ。

この考え方を捨てなければ、未来に明るい展望が開ける可能性がある。

未来の希望に対する決意の強さによって、可能性が必然性に近づく。

              

「もう」という言葉は、過去に目が向き、未来の希望に向かう力を感じさせない。

現状に満足するか、現在の困難を乗り越えることを考えない考え方だからだ。

この考え方では、未来に明るい展望が開ける可能性はない。

             

「まだまだ」と「もう」は、言葉自体には、大きな違いはない。

しかし、人生を生きるうえでは、この言葉の違いは、決定的な違いを持つ。

この言葉の違いは、人生における考え方の違いから生じることから、

どのような人生を送るのか、という違いをもたらすからである。

              

たかが言葉であるが、されど言葉なのである。

人生の根本にかかわる言葉は吟味して使う必要がある。

           

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2009年7月22日 (水)

たかが名刺、されど名刺・・・名刺に人生が刻まれている

昨年から、イラスト入りの名刺を使っている。

名刺には、赤い帽子のサンタ姿の私のイラストが描かれている。

あるイラストレーターが、私の似顔絵風のサンタ姿を描いてくれたからである。

サンタ姿の私は白い袋を背負っているが、その袋に「感謝」と書いてある。

                

以前から、感謝という言葉を使って、名刺を作りたかった。

素晴らしいイラストレーターとの出会いが、その希望をかなえてくれた。

ただ、夏になると、どうも、赤い帽子が暑苦しい感じに思えた。

そこで、最近、名刺に使うイラストを変えてもらった。

             

涼しさを出すために、サンタ姿の私は、「青い帽子」をかぶっている。

さらに、白い袋に書く言葉も変えた。

「夢」にしたのである。

夢を持つことは青春のイメージだから、夏にふさわしい。

               

秋や春も、また、別の色と別の言葉にしようと企画している。

秋は、「柿の色」とし、言葉は「福」にすることを考えている。

春は、「若葉の色」とし、言葉は「種」にすることになるだろう。

              

柿の色には、いろいろな意味を込めている。

柿は、8年という歳月を経て実がなる。

この自然の理を忘れないためには、柿の色がふさわしい。

また、柿の葉はビタミンCの宝庫であるから、柿は健康のイメージにつながる。

           

さらに、秋は収穫のイメージであるから、それにふさわしい言葉が必要である。

どうせ収穫するなら、「福」がいい。

そこで、「福」をサンタの袋の言葉としたい。

                          

若葉は、春のイメージそのものである。

そのため、若葉の色である「うす緑」が春にふさわしいと考えた。

スピッツの「若葉」という曲のイメージを名刺に入れたかったところもある。

       

春は、種まきのシーズンである。

秋に素晴らしい収穫をするには、それにふさわしい種をまく必要がある。

そこで、春のサンタの持つ袋の言葉は、「種」が最適と考えた。

           

これで、春夏秋冬のサンタ姿の帽子の色と袋の言葉がそろうことになる。

春は、若葉色の帽子と「種」という言葉である。

夏は、青色の帽子と「夢」という言葉である。

秋は、柿色の帽子と「福」という言葉である。

冬は、赤色の帽子と「感謝」という言葉である。

               

このような名刺を考え、それを配って、喜んでいる私がいる。

そのような名刺の製作に真剣に協力してくれる人たちが、私の周辺にいる。

私たちの要望にしたがって、イラストを書き直してくれるイラストレーターもいる。

         

「たかが名刺」のようであるが、「されど名刺」なのである。

イラスト入り名刺には、思いが込められているが、

同時に、それには、いろいろな人たちの温かい支援がある。

名刺それ自体に、喜びに満ちた人生が刻まれている。

                                                        

                  

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2009年7月21日 (火)

人生に意味を持たせることに、このブログの存在理由がある

7月19日の、「aki」さんの2つのコメントを拝見した。

率直な意見で、とても、参考になる。

このブログを真剣に読んでくださる方がいることに感謝したい。

                            

思いつくままに、私の考え方を書かせてもらうことにする。

私は、陽明学の創始者の王陽明の人生の捉え方が正しいと思っている。

「人生とは、喜怒哀楽に尽きる」という考え方である。

人間の本質から、喜怒哀楽という感情が人生そのものだ、と捉えるわけである。

                

その時々の出来事に、喜怒哀楽の感情が湧いてくるのは自然なことである。

その意味で、主観を相対的に捉えるakiの考え方は正しいと思える。

この点について、それをそのまま受け入れていいのか、という問題意識が生まれる。

この問題意識は、人生を意味のあるものにしようと考えることから生まれる。

               

時々の感情に左右されることは、人生を意味あるものにしないと考えるからだ。

人生を意味あるものにするには、時々の出来事に動じないことが必要となる。

その様な人間になることを修養といい、これを身につけることを学ぶという。

                        

儒教や朱子学は、「修己治人」というリーダーになるための人間修養の学問である。                        

自然状態では相対的な主観を、社会を進歩させるために絶対的にしようとするのだ。

西郷隆盛が、自殺しようとした弱い自分を修養するためにしたことがある。

刀を天井に吊るし、その刀が自分を貫くのを想像し、それを受け入れる訓練をした。

               

自分の影の部分である弱さを自覚し、それを光という強さに変えるために努力した。

弱い部分を「そのままでいい」と思わず、強い自分に「変わろう」としたのである。

「そのままでいい」か、「変わろう」か、は人生の選択である。

この選択に良し悪しはない、それぞれの人の自由である。

                  

したがって、「そのままでいい」と思うことは、ひとつの選択として尊重したい。

また、同じ人でも、事柄により、時期によって、選択が違ってもおかしくない。

あるときは「そのままでいい」とし、別の機会で「変わろう」とすることはあるだろう。

                      

このブログで言いたいのは、人生、少しでも意味あるものにして欲しい、ということだ。

人間は考え方によって、人生を意味あるものにすることができる。

その様な人生は楽しく、喜びに満ちている。

こういう人が増えて欲しいと思って、このブログを書いている。

                  

このブログは、考え方を変えられる状況にある人を前提としているともいえる。

悪い状況にあるときに、「そのままでもいい」と考えるのは、一つの知恵である。

良い状況に変えられない環境にいる場合に、その中で心に平安をもたらすからだ。

環境が変化したら、良い方向に変えるように考えて欲しいのである。

                                 

人生は循環する傾向があるから、一定の方向で循環することになる。

良い方向で循環する場合には、良いことが次々に起こるものである。

同様に、悪い方向で循環する場合は、これでもかという具合に悪いことが続く。

この場合、悪い循環を一気に良い循環に変えることは難しい。

                    

悪い循環の回転を少しづつ減らし、最後に、その回転を止める必要がある。

その上で、少しづつ、良い循環を始め、いつしか、良い循環の回転を早くする。

したがって、「悪い」→「そのままでいい」→「徐々に変える」という順序になる。

意志の弱い人も、それなりの順序を踏めば、良い循環を創れるのである。

                  

このブログの対象イメージの意志が弱い一般の人を前提としてのことである。

その意味では、このブログの言葉は、すべての人に適用できるとは考えていない。

「一隅を照らす」のが国の宝だという観点から、「このブログに少しでも意味を

感じていただける人がいたら、ありがたい」、そう思って、ブログを書いている。

                    

人生に意味を持たせ、楽しく、喜びに満ちた人生をイメージし、

それに近づくために、どう考えたらいいのかを模索することに、

このブログの存在理由があることが確認できた気がする。

この点で、「aki」さんのコメントに、感謝したい。

                    

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2009年7月20日 (月)

一度っきりの人生・・・あなたはその後にどういう文章を入れますか?

「一度っきりの人生だからこそ、一生懸命に生きたいですネ」

高田さんからのコメントの言葉である。

この言葉に、私も同感である。

             

「一度っきりの人生」・・・・・そのことを思うと、自分の人生が愛おしくなる。

「一度っきりの人生なら」の後を自分の言葉で埋めてみて欲しい。

それぞれの人なりの人生の考え方が描かれるだろう。

               

「一度っきりの人生なら、大切にしたい」

「一度っきりの人生なら、楽しいものにしたい」

「一度っきりの人生なら、後悔をしないようにしたい」

               

高田さんは、「一生懸命に生きたい」という考え方を示された。

一生懸命に人生を送るのなら、楽しいこと、喜ぶことに出会えるだろう。

それを人生の潤いとし、果実であると捉えることができる。

その様な人生が送れると、そのような人生に係った人たちに感謝したくなる。

           

高田さんは、両親との縁が薄い人のようである。

お父さんは分からない、お母さんとは3年しか一緒に住んでいないからである。

でも、両親の縁で、この世に生まれたことに感謝されている。

生まれてこなければ、現在の人生の潤いや果実を味わうことがなかったからだ。

                

「感謝する人は沢山いる」とも書かれている。

一生懸命に生きているから、「類は友を呼ぶ」の原則があるので、

一生懸命に生きることに共感する人たちと出会えるからである。

          

ただ、一点、気になる文章があった。

「出会った人を失うのが怖い」という文章である。

「考えることが実現する」という原則があるので、

怖がると怖がったことが実現する可能性があるからである。

              

そこで、考え方を変えられたら変えたほうがいいと思う。

「出会った人で自分の人生に必要な人とは縁が続く」と考えることである。

つまり、同じことを、「恐れ」ではなく、「喜び・楽しみ」で考え直すのである。

そう考えると、人生をもっと素晴らしいものにできる。

                  

さらに、別の考え方もある。

出会った人を失うことは、悪いことばかりではない、と考えるのである。

自分の人生を悪い方向に持っていく人を失うのであれば、幸いだからである。

大切なことは、失うこと自体ではなく、失った後の人生にどういう意味を持つかだ。

                  

Aという人を失わなければ、Bという人と出会えないこともある。

Aは、長い人生を見れば重要な人でなく、Bは重要な人だということである。

現在はAを恋人にしているが、本当は長い人生を共にする人ではない場合もある。

でも、Aとの別離があると寂しくなるのは確かである。

           

その寂しさを恐れるために、Aを失うことを恐れることは分かる。

ただ、そのために、自分の人生にとって重要なBに出会えないことになる。

Bと知り合っても、Aがいるために、Bの重要性に気づかないことになる。

むしろ、Aとの別れは、Bとの出会いの前兆なのかもしれないのである。

                     

人との出会いは重要であるが、どういう人でもいいということではない。

自分の考え方が変わると、不思議に出会う人が違ってくるものである。

「類は友を呼ぶ」という原則は事実なのである。

自分の考え方のステージが異なると、そのステージにあった人と出会うのである。

               

人との出会いを大切にしたいが、別れも悪いものばかりではない。

将来の新しい出会いを信じることができれば、別れにこだわらなくなる。

そのためにも、常に新しい出会いを創る努力をすることである。

まさに、一生懸命、新しい出会いを創ることである。

                

昨日のブログに対して、akiさんから、新しいコメントが入った。

人生を考える上で参考になるので、明日は、この点に関して述べることにする。 

                  

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2009年7月19日 (日)

生きているだけでいい、変わらなくてもいい

最近いただいたコメントについて、書くことにしたい。

コメントの中に、コメントされる方の人生の一面があり、

そこから、このブログを、どう見ているかが分かるからである。

                                                

「aki」さんからのコメントに対して。

このブログを素直に受け取れる部分とそうでないものとがある、と言われる。

このブログが一般化され、理屈で書かれている、と理解されているからである。

                  

性的虐待をうけたような一般の人が経験しないような体験をしている人からすれば、

「自分を変える」と私が述べているのは、軽い言葉に聞こえる、とされる。

             

このコメントは、このブログの狙いを良く捉えている。

このブログは、普通の体験を持つ、ごく普通の人を対象に書いている。

読む対象をそのようにイメージしつつ書いていることは確かである。

すべての人に通じる書き方をすることは難しいからである。

              

このブログの書き方が一般化しているように見えるのは、そのためである。

ただ、「理屈」のように受け止められているが、この点は誤解である。

一般化した書き方だから理屈のように見えるかもしれないが、

その背景には、私の実体験が横たわっていることは確かだからである。

             

そのため、akiさんの指摘される「想像を超えた体験」をした人には、

このブログは役に立たないかもしれない。

その様な体験を持っている人に対しては、もっと配慮した言葉が必要だからだ。

このブログの言葉が軽く感じられるのは、やむをえないと思っている。

                     

でも、このブログの一部でも、「素直に受け取れる」ものがあるのは嬉しいことである。

その一部だけでも、少しは元気になってもらえているからだ。

それで、このブログの役割は果たせたと思えるからである。

               

コメントの最後の言葉に、私は切なくなった。

「苦しくても・・・・幸せを感じないような感覚になっても、

生きているだけでいい、変わらなくてもいい。」

                    

私の言葉から、そう受け止められたようだ。

「・・・・いい、・・・・いい」という「いい」が入っているだけでもありがたいことだ。

                

受け止め方は自由であるから、私としては、そうですか、と言うほかない。

でも、どうせ生きるのなら、幸せを感じる生き方をして欲しい。

ただ、そう願うばかりである。

          

明日は、もう1人のコメントについての考えを述べたい。

                                  

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2009年7月17日 (金)

暑さに感謝?

昨日も、太陽が輝き、東京の昼間は、30度を越す暑さだった。

外にいれば、自然の暑さに、思わず、ぼやきが出る。

このような場合、我々は、太陽を恨めしく思い、太陽のあり難さを忘れている。

                               

それでも、太陽は、文句も言わず、我々に恩恵を与え続けている。

この恩恵は無償であり、しかも、恩着せがましいことを言うこともない。

これが大自然の恵みというのであろう。

人間は、この大自然の恵みを当然と思い、感謝することすら忘れている。

                                         

両親の子供への無償の愛も、太陽の恵みに似ている。

見返りを求めず、恩着せがましいことも言わない。

私の両親の生涯を思い起こすと、そのような生き方だった気がする。

               

ところが、子供は、両親の無償の愛を当たり前だと思い、

両親が与えてくれる無償の恩愛のありがたいさに目が向かない。

その結果、両親への感謝の念を忘れることになる。

                    

暑さに、太陽が与えてくれる恩恵を忘れたことに気づき、

思わず、両親が与えてくれた恩愛を思い起こした。

このような大自然の恩恵に感謝すれば、暑さの感覚も和らぐだろう。

             

                 

                       

                  

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2009年7月16日 (木)

加山雄三さんの若大将から、明るい未来を思った

加山雄三さんが、日本経済新聞で「私の履歴書」を連載している。

加山さんが主演する映画「若大将シリーズ」はほとんど見た。

このシリーズは、青大将を敵役とする青春物語であり、実に楽しい映画だった。

                

いつも同じように、プラトニックな恋人とのラブストーリーがあり、

海外を含む美しいロケ地を背景にした美しい映像が用意されている。

さらに、4作目からだそうだが、加山さんの作曲したロマンチックな歌が流れる。

当時としては、夢とロマンに溢れた娯楽映画だった。

                 

「エレキの若大将」の主題歌になった「君といつまでも」は大ヒットした。

作曲依頼を受けて1週間で作った曲が、350万枚のヒットだそうである。

「しあわせだな」で始まるセリフは、加山さんのアドリブらしい。

間奏でセリフを言うはエルビス・プレスリーの真似だった、と書いている。

                    

加山さんの連載を読みながら、自分の青春時代を思い出した。

考えてみると、派手さのない、実に地味な青春だった気がする。

確かに、プラトニックな恋をしていたが、ロマンチックから縁遠いものだった。

むしろ、今のほうが若大将的で華やかな青春のような気がする。

                     

青春とは若さを示すものであるが、その若さとは生命年齢ではない。

むしろ、サムエル・ウルマンがいうように、「心の若さ」こそが、青春であると思う。

ウルマンの「青春の詩」(訳詞:岡田義夫氏)の一部を紹介することにする。

           

「青春とは人生のある期間をいうのではなく 心の様相を言うのだ。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 年を重ねただけで人は老いない。

 理想を失う時に初めて老いがくる。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる

 人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる

 希望ある限り若く  失望と共に朽ちる

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

                     

日本人の青春群像を見事に表現したのが、司馬遼太郎氏である。

「竜馬がゆく」で坂本龍馬の青春を示す言葉を書いている。

「太陽に向かったままの姿勢で死ね」 

太陽は、ウルマンのいう理想、信念、自信、希望 に相当する。                  

                

明治の青春群像を「坂の上の雲」という書名に託した。

「坂の上の雲」は、理想、信念、自信、希望そのものを示したものだ。

理想、信念、自信、希望は、明るい未来の実現を信じる言葉である。

換言すれば、思いを実現する人間の創造力への讃歌でもある。

              

自分を信じ、社会を信じ、未来を信じる。

それによる心の光明こそが若さを示すのである。

今の日本に不足しているのが、この心の光明である。

自信の喪失、社会への不信感、未来への不安が蔓延しているからである。

                    

未来は、今、まく種で決まるのだから、今、自信・信頼・安心の種をまいたらいい。

今、不安だからこそ、未来に安心できるように、今、安心の種をまく必要がある。

今こそ、青春の群像のように、心の光明が必要なときなのである。

ウルマンの言う、理想、信念、自信、希望の種をまくときなのである。

                     

今週のメルマガにも書いたが、我々が生まれてくるのは奇跡なのである。

1億円の宝くじに、100万回連続して当たるのと同じ位の確率だからである。

我々は、1人ひとりが奇跡なのだから、もっと自信をもっていいだろう。

奇跡の人の集団が社会だとすれば、社会の未来に希望があるのが自然である。

                     

加山雄三さんの「私の履歴書」を読みながら、そんなことを考えた。              

いままでもそうだったが、今後も、人類の未来には進歩があり、未来は明るい。

そう信じたいし、そう信じる。

そういう人が多くなれば、きっと、明るい未来が築かれるだろう。

今の日本に足りないのは、このような青春群像である。

              

                    

                    

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2009年7月15日 (水)

1000人に聞きました・・・もっと好きなことをしておけば良かった

「もっと好きな事をしておけば良かった」

このように、老齢になってから、思う人が多い。

そういうアンケート結果が、出ているそうである。

高田さんからいただいたコメントで紹介されている。

                      

アメリカで、80歳の人、1000人を対象にアンケートをした。

そのうち、950人が、もっと好きなことをしておけばよかった、と思っている。

日本でアンケートしても同じ結果となるだろう。

        

以前紹介した「死ぬ時に後悔すること25」にも、同じことが取り上げられている。

「自分でやりたいことをやらなかったこと」が死期が迫ったときの後悔になっている。

人間として与えられた自由を使わず、社会が設けた限界に閉じ込められた。

「できっこない」「やっちゃいけない」という暗黙の社会の限界に負けたのである。

              

退職者に対するアンケートでも、同じような後悔が最も多かったようである。

「もっとリスクをとっておけばよかった」という後悔が圧倒的多数だった。

          

昨日、ある上場企業の研修担当者から、嬉しいメールをいただいた。

先週の金曜日に、ある上場企業で全役員と経営幹部向けのセミナーをした。

受講者から次のような声があったそうである。

「内部統制とリーガルマインドの本当の意味が分かった」

                 

さらに、社長も社内向けWebサイトで、私の著書を推奨してくださったという。

自分の講演が会社の役に立った、と実感でき、大きな喜びをいただいた。

このような報告をしてくれるメールは、幸福感を運んでくれるものである。

                               

そこで、いただいたメールに対して、今朝、感謝をこめた返信のメールをした。

その中で、次のようなことを申し上げた。

              

「お金は、あの世に持っていけません。

人の役に立つ喜びはあの世に持っていける気がします。

受講者の声に感謝します。」

これは、私の本音を述べたものである。

              

人間は死ねば、肉体は消失し、地位も財産も、あの世に持っていけない。

ただ、人間の精神・霊魂は永遠の命を持っていると信じたい。

この人間の精神は、この世で成長し、その成長した精神が輪廻する。

つまり、成長した精神を持った人間として、また、生まれてくる。

                                 

成長した精神の中に、この世で人・社会の役に立った喜びが含まれている。

そう考えて、人の役に立つ喜びはあの世に持っていける気がすると申し上げた。

この世でたくさんの喜びを経験し、そのような精神を持って、また、生まれてくる。

こう考えると、人生はもっと自由に楽しく生きることが重要になってくる。

                

楽しみと喜びに満ちた後悔のない人生こそ、本当の人生ではないだろうか。

そういう人生を送ることは、誰にでもできることである。

                                 

               

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2009年7月14日 (火)

誕生日は母親に感謝する日、感謝の言葉は?

7月13日に、山下さんから、このブログに対するコメントをいただいた。

元気に楽しく生きることを考えるいい機会なので、このコメントを取り上げたい。

 

まず、「良い方向に変えたいといえるような結果を出していない」と言われる。

そのため、「道に迷い、焦りを感じながら、日々生きている」という文章になる。

              

何を「結果」と考えるかで、すぐに出るものと何年もかかるものとがある。

トイレの水まわりを掃除しよう、というのなら、今日からでも結果はでる。

今日、トイレの水まわりの掃除をすればよいからである。

それでも、立派な結果であり、心に革命を起こしている証でもある。

               

昨日まで、トイレの水まわりの掃除をするという考えはなかった。

ところが、今日、やろうと考えて、トイレの水まわりを清掃したとする。

それは、トイレの水まわりの清掃をするという昨日までなかった考えに基づく。

心の一部で、新しい考えが生まれ、それに基づきトイレの水まわりが清潔になった。

           

すぐに出ない結果を考えていると、すぐに結果をだせない。

桃栗は3年、柿は8年たたないと、実をつけるという結果は出せない。

即席ラーメンなら、お湯を入れて3分経てば、食べる結果を出せる。

                

重要なことは、元気に楽しく生きられる工夫をすることである。

まず、やろうと思えばできることからやり始めることだ。

              

いままで、職場の人に、挨拶できなかったら、挨拶することだけでも素晴らしい。

「おはようございます」と言うだけでもいい、小さな声を少し大きくするだけでもいい。

それだけでも、今までやらなかったことを自分の考えを変えてやるのである。

これも、自分の考えを変えたことによる立派な結果である。

              

今までやっていなかったことで、できることをやろうと考えることが重要なのだ。

すぐにやれないこと、すぐに結果の出ないことよりも、

すぐにできることをやる、すぐに結果の出ることをやることが重要なのだ。

                

ホームランを狙わず、安打でもいい。

あるいは、バットに球にあてるだけでもいいのだ。

思い切ってバットを振るだけでも意味がある。                

今までできなかったことをやる自分がそこにいるからである。

                  

迷いや焦りがあることは、考え方が間違っているからである。

自分をいじめて、元気や楽しさを奪う考え方になっているのである。

今までやっていなかった自分にできることをやってみていただきたい。

やらなかったことをやった昨日と違う自分にめぐり会えるはずである。

                    

小さなことでも、大きなことでも、自分の考えを変えることでは同じことである。

この小さなことを変えることをしないで、人生を後悔して終わる人がほとんどだ。

大きい小さいよりも、良い方向に考え方を変えること自体が重要なのである。

                  

山下さんは、昨日、誕生日とのこと。

おめでとうございます。

母君へ電話をかけられたという。

今まで、このような電話をかけたことがなかったなら、立派な結果がここにある。

                   

誕生日を母への感謝の日とし、電話することは、自分が変わったことでもある。

このような、自分の良い面での変化に敏感になることが必要である。

良い方向に自分が変わったなら、それに気づいて素直に喜ぶことである。

この喜びで、さらに自分が良い面に敏感になるからである。

                

山下さんのコメントを読んで感じたことがある。

「結果がでない」と悪い面に敏感であるのに、

母君に電話をするという良い面に鈍感な点である。

これが反対になれば、悩み、焦りはなくなり、元気で楽しい日々が送れる。

             

来年にならなくても、今日からでも、変われることがある。

母親への感謝の言葉を、自分ひとりのときに、言えばいい。

あるいは、「お母さん、生んでくれてありがとう」を頭の中だけで言えばいい。

それだけでも、自分が変われるものなのである。

                  

そして、いつしか、面と向かって母親に感謝の言葉を言えるようになる。

                    

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2009年7月13日 (月)

激動の時代における幸福とは何か

土曜日と日曜日は、このブログを書くことを休んだ。

土曜日は、終日、外出していた。

日曜日は、都議選の投票のために外出した以外は、終日、のんびりした。

              

今日の新聞の朝刊の見出しを見たら、社会が激動期にあることが分かる。

都議選で民主党が圧勝し、キリンとサントリーが経営統合する動きがあるからだ。

民主党の圧勝は、政権交代への序章かもしれない。

同じ業界の1位と2位との経営統合は、競争が世界規模になった現れである。

                 

このような激動期にあり、しかも、情報が溢れる現在は、頭が混乱しやすい。

情報を利用すべき人間が、情報の渦に巻き込まれて、翻弄されるからである。

人が酒を飲むのなら健康にいいが、酒に飲まれると健康を害するのに似ている。

重要なことは、自分とは何かを押さえて、自分らしさを持って生きることだ。

                 

つまり、人間とは何かを考えて、自分の生き方を自分で決めることである。

言い換えると、人生の荒波を乗り越えるための羅針盤を持つことである。

人生の羅針盤は、自分の人生の方向性を決めることでもある。

自分なりに、人生の目的をもてれば、それが自分の羅針盤となる。

                    

知り合いの税理士さんから、「今月の良書」という良書紹介ものをいただいた。

その中に、幸福について、ある僧侶が言ったという言葉があった。

幸福になるには、4つの事柄があるというのであるが、以下に紹介したい。

               

1つは、人に愛されること

2つは、人に誉められること

3つは、人の役に立つこと

4つは、人に必要とされること

             

この幸福論は、すべて、他人という存在を前提としている。

つまり、幸福は、他人との関係で感じるものだというのである。

「人」という字自体が、人と人との係りをあらわしている。

その意味では、前述の4つが幸福に深くつながっているのは確かである。

              

このほかにも、幸福になる事柄があるような気がする。

感謝することも、幸福をもたらすものである。

成長することも、幸福につながっている。

夢や希望を持つことも、そのための努力することも、幸福につながる。

                    

幸福は、様々であっていい。

自分なりに、最も幸福なことを知ることは、幸福にいたる近道である。

よく考えてみると、我々の内心・周囲には、幸福の花畑が広がっているのである。

よく考えないと、周囲に対して不満だけを思いつくようになる。

          

よく考えて、自分にふさわしい人生の羅針盤を作ることが必要である。

激動の現在でも、楽しみと喜びに満ちた日々を送ることはできるのである。

                                              

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2009年7月10日 (金)

今朝、自己啓発書の原稿を完成させた

今朝、一冊の本の原稿を書き上げた。

この本は、自己啓発書であり、仕事自体とは直結していない。

そのため、ここ2週間は、毎朝、この原稿を書く時間を作るのに苦労した。

早朝が仕事をする時間でもあるため、仕事の合間に原稿を書くからである。

                  

そのため、早起きの私であるが、さらに、睡眠時間を短縮した。

毎朝、2時前後に起床したので、いささか、疲れが出ている。

でも、1つの原稿を仕上げたという充実感があるのは確かだ。

   

以前より、人を元気にする自己啓発書を出版したかった。

それもあって、この原稿の完成はとても嬉しい。

          

この本は、9月中に、出版されることになるだろう。

この本によって、少しでも、社会の人の役に立てるとよいのであるが。

でも、原稿を書いていて、自分の自己啓発をしていた気もする。

           

「情けは人のためならず」というのは本当である。

「人のため」にすることは、同時に、「自分のため」になるのである。

この本の原稿を書いていて、そのことを実感した。

             

いずれにしても、今日は金曜日なので、久しぶりに、本格的なフィーバーをしたい。

今日の夜は、大いに遊ぶぞ。

              

                      

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2009年7月 9日 (木)

不景気でも、株価が下落しても、未来は明るい

過去も他人も変えられない。

過去の事実は、そのままの事実として残る。

他人は、その他人自身で変わろうとしない限り変わらない。

              

でも、考え方を変えれば、変わらないものも変えることができる。

過去の事実自体は変わらないが、その事実の意味づけを変えることはできる。

過去の失敗は変わらないが、その失敗を生かせば、失敗の意味が変わる。

          

他人を変えることはできないが、他人が自身で変わろうとすれば、他人も変わる。

そのためには、他人を変えようとせず、自分を変えることを考えることだ。

不思議なことに、自分が変われば、他人に影響して、他人自身が変わろうとする。

その結果、変えられない他人が変わるのである。

  

人間の考える力は、なかなかのものだ。

この考える力で、人間社会は発展してきた。

人間に考える力がある限り、それを正しく使えば、未来は明るい。

不景気であろうと、株価が大幅に下落しようと、このことに変わりはない。

                                 

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2009年7月 8日 (水)

世界に1人しかいない自分、矢沢永吉さんの場合は?

考えてみると面白い。

私とは何か。

視点を変えると、考えることが違ってくる。

               

人間としての私を考えると、人間とは何かを考えるようになる。

人間として、他の人たちとの共通性と違いがある。

このようなことを、人生を楽しくする、という観点から考えている。

それが、このブログの方向感覚なのである。

              

私は、世界に1人しかいない。

これが、他の人との最も異なっている点である。

この点を、人生を楽しくするという観点から考えると、面白い。

              

矢沢永吉さんは、この点、芝居に見立てている。

自分の人生を、矢沢永吉という役を演じるためにある、と考えたのである。

世界に1人の自分を演じていると考えると、苦しい場面でも、苦しみが少ない。

劇で苦しみを味わう役をやっていると思えるからである。

                  

また、自分を芝居の主役と考えると、自分で脚色することができる。

他人のせいで30億円余の借金を背負っても、それを完済する脚本にすればいい。

そうすることで、彼は、30億円余の借金を完済したそうだ。

矢沢永吉の役を演じて、楽しみながら借金を返したのであるからたいしたものだ。

                               

世界に1人しかいない自分、この真実をどう考えるのか。

きっと、何かの使命を与えられて生まれてきた、と考える人もいるだろう。

世界に1人しかいないのだから、他の人と違ったことをやってもいいだろう、

そう考えても楽しいかもしれない。

                

人間の考えは、融通無碍であり、自由自在である。

それに楽しさの方向を指示すれば、楽しくなることがいくらでも考えられる。

世界に1人しかいない自分なら、世界一楽しい人生を送ってもいいはずだ。

それは考え方次第で可能なのである。

                

私流の考え方だと、人生はディズニーランドそのものだからである。

               

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2009年7月 7日 (火)

他人からの批判や無視は、激励の言葉

5月末から始めたメルマガの反響が大きいのに、驚いている。

先週、旧知の経営者の訪問を受けた。

1人の執行役員を同行していた。

表敬訪問だと思い、四方山話をした。

                                    

ところが、単なる表敬訪問ではなく、目的のある訪問だった。

同行した執行役員にメルマガを送信することを要請することが目的だった。

メルマガなら、紹介なしに、送信依頼ができるのにである。

旧財閥系の企業の経営者だから、仁義を重んじたのかもしれない。

                               

旧知の経営者に、メルマガを送信していたのであるが、

その経営者が、メルマガを打ち出して、執行役員に手渡していたという。

それは面倒だから、メルマガを直接、執行役員に送信して欲しいと思ったようだ。

その執行役員から、メルマガから「元気をもらっている」と聞いて嬉しかった。

                  

自分では分からないことであるが、私は「元気印」の人間らしい。

このブログでも、メルマガでも、読んでいる人から、元気が出るといわれる。

講演をしても、それを聞いた人から「元気になった」といわれることが多い。

私が「元気印」なのは、なんでも良いこと、楽しいことにつなげて考えるからだ。

               

私も、本を書いたり、講演をしているから、批判を受けることもある。

陰口をいわれていることも知っている。

でも、批判も、陰口も、考え方一つで、私の将来の幸福・成功の種になる。

批判や陰口から、なるほどと思うところがあれば、それを成長の種するからだ。

          

批判や陰口を気にしない、というはもったいない。

頼みもしないのに、親切に、将来の成長の種をもらえるのが批判や陰口である。

それを活用しないと、折角の親切が無駄になり、もったいないからである。

そう考えると、鋭い批判ほど、ありがたいものはないことになる。

                

この考え方は、向かい風を使って飛行機が上昇することと同じである。

鋭い批判を向かい風と考え、それを使って自分を上昇させるのである。

世の中に多い、他人に無視されるということも、批判の一種と考えれば、

それを向かい風と思って、自分の上昇に活用することだ。

                

無視されることは、関心をもたれない、重要感をもってもらえないことだ。

「そうか、私は、まだまだなのだ。よし、いつかは関心をもたせてやる」

無視のお陰で、もっと自分を上昇させる気にさせてくれたのである。

無視されなければ、もっと上昇しようという気にならず、現状維持だったはずだ。

           

そう考えると、一生、上昇しようという青年であろうと思うのならば、

批判はもちろん、無視さえも、ありがたい上昇の激励になるのである。

批判や無視が、感謝や激励に翻訳されるのだから、人間は神業を持っている。

考え方一つで、人間、いくらでも、成長できるのである。

人間って素晴らしい、とつくづく思う。

                

                     

                

                  

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2009年7月 3日 (金)

聞き方教室に通い始める・・・60歳からの青春

著名な税理士である本郷尚先生から、毎月、ハガキをいただいている。

なかなか、興味深いことが短い文章でまとめられている。

毎月、本郷先生のハガキから学ばせていただいている。

                    

今月のハガキでは、聞くことの重要性について書かれている。

有益な情報なので、以下に、ハガキの一部をご紹介したい。

          

「しっかり聞かなければ、本物、本質の情報は得られません。

『真、芯、心』をキャッチします。

  聞く>話す

  聴く>聞く

  聴く=効く」

              

この結果、7月から「聞き方教室」に通われるという。

「60歳の手習い」だといわれるが、素晴らしいことである。

ここに、60歳の輝ける希望に満ちた青春があるからである。           

医学者で京都大学総長だった故平澤興先生の次の言葉の実践がある。

         

「60代に入ると・・・たのしい人生の修業(修行)が始まる。

 ・・・・・・・・・・・・・・

本当に人生を楽しむのは、80歳からである。」

(平澤興著「生きよう今日も喜んで」致知出版社)

        

本郷尚先生の60歳からの「聞き方教室通い」は、

60代の楽しい人生の修行が始まったことを意味する。

その結果、80歳から本当に人生を楽しまれることになる。

とても、素晴らしい話だ、ハガキを読み終えたとき、暫し余韻が残った。

                      

今日から3泊4日で、伊東のサナトリウムでプチ断食をする。

そのため、7月6日月曜日まで、このブログは休ませていただく。

           

このブログを読んでいただけた、ご縁に感謝します。

良い週末をお過ごしください。                 

                                

                

           

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2009年7月 2日 (木)

本当に幸福になりたいのですか? その秘訣は・・・

「成長する人は希望を語り、

成長しない人は不満を語る。」

             

いろいろな人を見ていると、そのような傾向がある。

なぜ、希望を語ると成長するのだろうか。

なぜ、不満を語ると成長しないのだろうか。

           

希望を語るとは、未来を語ることである。

しかも、希望は、今よりも未来の方が良くなるという考え方である。

つまり、希望は、今よりも、未来の方が成長するという考えなのである。

未来が良くなるという種をまくことで、未来の成長の果実を収穫する。

                

不満を語るとは、過去・現在を語ることである。

しかも、不満は過去・現在を否定的に考えている。

そこには、未来への明るい展望が入っていない。

不満という暗い現状の種をまき、未来に美味しく成長しなかった果実を収穫する。

              

500年に1人しか出ないといわれた聖賢である白隠禅師の「施行歌」にある。

「この世は前世の種次第、未来はこの世の種次第。

富貴大小あることは、   まく種大小あるゆえぞ。」

                 

心という田んぼにまいた種である「考え」次第で、自分の人生が決まるのである。

心田に、未来の希望(成長)の種をまけば、未来に成長の果実を収穫できる。

楽しい日々を送りたいのであれば、心田に楽しい種をまくことだ。

             

柿の種をまけば、柿の実を収穫できる。

柿の種をまいて、桃の実を収穫するはずもない。

収穫したいのが「楽しい」実なら、「楽しい」種をまくしかない。

日々、「苦い」種をまいて、「楽しい」実を収穫することはできない。

                

未来は自分の考え方という種次第なのである。

自分の人生の幸不幸は、他の誰でもない、自分次第なのである。

現在が不幸なら他の人を恨んではならない。

現在の不幸を招いたのは、自分自身の責任だからである。

                

本当に、楽しい幸福に満ちた人生を送りたいのですか?

そうであれば、日々、楽しく幸福の実となる種をまくだけでいい。

そうすれば、いつしか、種は成長し、楽しく幸福な人生の実を収穫できる。

                  

幸福になる秘訣は単純明快であり、自分の考え方次第なのである。

                 

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2009年7月 1日 (水)

夜の世界にも、青春がある

昨夜、たまに行く店で働いている女性から、新作のDVDを購入した。

6人の女性監督による短編映画特集のDVDである。

私にDVDを売ってくれた女性は、女性監督の1人であり、脚本家でもある。

しかも、出演者の1人も、その店でよく顔を合わせる女性である。

                 

夜働きながら、映画や演劇をやっている人は多い。

昨日の女性は、最近、テレビの脚本も書いているという。

                               

不思議に、私が贔屓にする女性にはそういう傾向がある。

有名な劇団の女優になった人、本格的なミュージカルに出演するようになった人、

中国に留学し、今は、中国貿易の仕事をやっている人、

踊りの世界を夢見て稽古に励んでいる人達等、皆、夢を追っている人達でもある。

                

私も夢を追っているところがあるから、夢追い人に魅かれるところがある。

出会ったころは、夢は語るだけに見えた。

でも、それぞれ、夢を語ると同時に、それなりの努力をしたのだろう。

その結果、皆、夢を現実のものにしている。

                    

やはり、夢を持っていない人生は寂しすぎる。

どういう夢でもいいから、未来に実現したい夢をもって生きたいものだ。

未来の夢を持つ限り、年齢、性別、職業に関係なく、そこには青春がある。

花が咲き、実が稔る未来の夢があるからこそ、その種まきの時期は青春となる。

              

夜の世界に生きる女性の中に、夢をもって青春を送っている人たちがいる。                    

そこに行って、若い青春に触れるのだから、夢を持つ私も青春を謳歌できる。

夜の世界にも、輝きのある青春がある。

夜は決して、疲れを癒すだけの場ではなく、青春の充電をする場でもある。

               

どうも、理屈っぽい言い回しになってしまった。

要は、夜の世界にも「類は友を呼ぶ」ところがあり、楽しいといいたいのである。

                                      

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