愛する人に「ありがとう」を伝えられなかった、と日蓮上人との関係
「愛する人に『ありがとう』を伝えられなかったこと」
これは、「死ぬ時に後悔したこと」の1つの例である。
つい最近、ある知り合いの税理士・公認会計士さんから、ハガキが届いた。
毎月、その方から、ハガキがくるが、そのハガキを楽しみにしている。
毎回、実際に役に立つことを箇条書きにしてくれているからである。
今回のハガキは、「死ぬ時に 後悔しない!」という表題がついている。
ハガキの最初の書き出しは、日蓮上人の言葉である。
日蓮上人に、人生の目標を述べた言葉があるというのである。
「死ぬときに後悔しないこと」
人間は、例外なく、人生のゴールは死だと決まっている。
文字どおり、人生の目標は死なのである。
その人生のゴールに到達するとき、人生の総括が行われる。
良い人生だったか、後悔する人生だったかは、到達点で分かることになっている。
日蓮上人は、死が人間にとってのゴールである現実を直視した。
その上に立って、良い人生だったと総括できることを一言で表された。
それが、「死ぬ時に 後悔しないこと」という言葉である。
この言葉は、どう生きたらいいのか、人生の目標を示している。
「死ぬ時に、いい人生だった、といえるような生き方をしなさい」という教えである。
そうなると、「いい人生だったといえるのはどういう場合か」を考えるようになる。
そのことを理解するための多様な考え方を、幾多の聖賢が教えている。
それは、人間とはいかなる存在か、存在する意義は何か、という問題とつながる。
それを理解するために、人間を存在させる源をどこに求めるかの問題にもなる。
これらの問題も、いい人生だったと思える生き方をするための問題なのである。
この実用的な視点を忘れなければ、どのような考え方でも良いのである。
このような実用的な視点から人生を考えると、多様な考え方ができる。
人間の生み出す源を神であるとするかどうかで議論しても実用的な意味はない。
聖徳太子が神道と仏教の並存させたのは、この実用的観点からであろう。
神道と仏教のどちらが正しいかではなく、それぞれに実用的な意味がある、
そのように聖徳太子は考えられたのだろう、と勝手に私は考えている。
人生がいいかどうか、後悔しないでいいか、これは各人の主観で決まる。
そうであれば、いいかどうかの基準は多様であってよいであろう。
社会的基準を決めて、それに対する審判をするは必要ないであろう。
ただ、何がいいか分からない人に一応の基準は意味があるかもしれない。
いろいろな宗教の決めた基準を守ることがいい人生なのだ、と考えるのは自由だ。
ただ、他の宗派の基準を守ることがいい人生だと考えるのを非難するのはおかしい。
人それぞれに個性があり、いいかどうかの主観的基準は異なるのが自然だからだ。
それぞれの多様ないい生き方の基準を尊重することが信教の自由なである。
日本人であったことのありがたさは、聖徳太子という聖賢がいたことである。
多様ないい人生を広く許容する「和」の精神を日本民族に残してくれたからである。
私の名前は重和で「和」の一文字が入っているが、これ自体ありがたいことである。
考え方は、「実用性を重んじるべきである」点で本質的である必要がある。
同時に、実用的である故に、多面的多様的であると広く捉えるべきである。
しかも、我々の人生は長い人類の中の一瞬に過ぎないし、未来永劫を考えると、
遠い過去から長い未来も視野に入れた長期的な考え方が必要である。
明日のブログでは、死ぬ時に後悔したことは何か、その実例を紹介したい。
「愛する人に・・・」以外の後悔する例を紹介したい。


最近のコメント