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2009年5月31日 (日)

愛する人に「ありがとう」を伝えられなかった、と日蓮上人との関係

「愛する人に『ありがとう』を伝えられなかったこと」

これは、「死ぬ時に後悔したこと」の1つの例である。

           

つい最近、ある知り合いの税理士・公認会計士さんから、ハガキが届いた。

毎月、その方から、ハガキがくるが、そのハガキを楽しみにしている。

毎回、実際に役に立つことを箇条書きにしてくれているからである。

今回のハガキは、「死ぬ時に 後悔しない!」という表題がついている。

           

ハガキの最初の書き出しは、日蓮上人の言葉である。

日蓮上人に、人生の目標を述べた言葉があるというのである。

「死ぬときに後悔しないこと」

                

人間は、例外なく、人生のゴールは死だと決まっている。

文字どおり、人生の目標は死なのである。

その人生のゴールに到達するとき、人生の総括が行われる。

良い人生だったか、後悔する人生だったかは、到達点で分かることになっている。

                        

日蓮上人は、死が人間にとってのゴールである現実を直視した。

その上に立って、良い人生だったと総括できることを一言で表された。

それが、「死ぬ時に 後悔しないこと」という言葉である。

                  

この言葉は、どう生きたらいいのか、人生の目標を示している。

「死ぬ時に、いい人生だった、といえるような生き方をしなさい」という教えである。

そうなると、「いい人生だったといえるのはどういう場合か」を考えるようになる。

そのことを理解するための多様な考え方を、幾多の聖賢が教えている。

                 

それは、人間とはいかなる存在か、存在する意義は何か、という問題とつながる。

それを理解するために、人間を存在させる源をどこに求めるかの問題にもなる。

これらの問題も、いい人生だったと思える生き方をするための問題なのである。

この実用的な視点を忘れなければ、どのような考え方でも良いのである。

                    

このような実用的な視点から人生を考えると、多様な考え方ができる。

人間の生み出す源を神であるとするかどうかで議論しても実用的な意味はない。

聖徳太子が神道と仏教の並存させたのは、この実用的観点からであろう。

神道と仏教のどちらが正しいかではなく、それぞれに実用的な意味がある、

そのように聖徳太子は考えられたのだろう、と勝手に私は考えている。

                       

人生がいいかどうか、後悔しないでいいか、これは各人の主観で決まる。

そうであれば、いいかどうかの基準は多様であってよいであろう。

社会的基準を決めて、それに対する審判をするは必要ないであろう。

ただ、何がいいか分からない人に一応の基準は意味があるかもしれない。

                 

いろいろな宗教の決めた基準を守ることがいい人生なのだ、と考えるのは自由だ。

ただ、他の宗派の基準を守ることがいい人生だと考えるのを非難するのはおかしい。

人それぞれに個性があり、いいかどうかの主観的基準は異なるのが自然だからだ。

それぞれの多様ないい生き方の基準を尊重することが信教の自由なである。

                 

日本人であったことのありがたさは、聖徳太子という聖賢がいたことである。

多様ないい人生を広く許容する「和」の精神を日本民族に残してくれたからである。

私の名前は重和で「和」の一文字が入っているが、これ自体ありがたいことである。

             

考え方は、「実用性を重んじるべきである」点で本質的である必要がある。

同時に、実用的である故に、多面的多様的であると広く捉えるべきである。

しかも、我々の人生は長い人類の中の一瞬に過ぎないし、未来永劫を考えると、

遠い過去から長い未来も視野に入れた長期的な考え方が必要である。

             

明日のブログでは、死ぬ時に後悔したことは何か、その実例を紹介したい。

「愛する人に・・・」以外の後悔する例を紹介したい。

                

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2009年5月29日 (金)

大日如来像はミッキーマウス?

週末なので、元気になる一言。

                  

「今日は、人生のうち、今日しかない。

2009年5月29日は、二度とない日である。

明日、1兆円出しても、今日を買い戻すことはできない。

我々は、1兆円超の価値のある今日を手にしている。」

              

昨日は、正五九(しょう・ご・く)であった。

以前から、このブログを読まれている人は分かっている。

1月(正月)、5月、9月の、各28日に深川不動尊にお参りに行くことだ。

それを、若干正確さに欠けるが、27年間続けて、今年で、28年目になっている。

              

以前は、成田山新勝寺に行っていたが、最近は、深川不動尊に行く。

昨日も、ゆとりを持って、深川不動尊をお参りした。

お参りが終わると、不思議に気分の良いものである。

私の場合は、祈り=感謝と考えているので、感謝するために、お参りしている。

                        

深川不動尊には、大日如来、釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来、不動明王、

観世音菩薩、文殊菩薩等実に数多くの祈りの対象が安置されている。

そのすべてに、感謝の祈りをささげられることはありがたいことである。

               

本堂の4階には、巨大な大日如来像が安置されている。

その像の前で、誰もいない中で、私ひとりで祈れるのは、荘厳さを感じる。

この大きな大日如来が、まるごと、自分の心の中にいるを思うだけで力が湧く。

                

大日如来、釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来、不動明王等は、我が心の中にいる。

そう考えると、自分の心の中に、広大無辺な能力を与えられていることを実感できる。

私流に言えば、心に、夢と冒険とファンタジーのディズニーランドがあるようなものだ。

                  

ある意味では、深川不動尊のお参りは、ディズニーランドに行くようなものである。

そうであれば、お参りした後味がよく、元気になるのは、当たり前のことなのだろう。

大日如来像を、ミッキーマウスと考えればいいのである。

              

今日一日を記念すべき日にするなら、

今日一日をディズニーランドにいる気分になることだ。

美しい女性を見かけたら、白雪姫だと思えばいい。

意地悪な人がいたら、それは、白雪姫をいじめる魔女なのである。

              

仕事が終わった後には、イッツ・ア・スモールワールドの世界を経験すればいい。

まさに、ディズニーワールドで、金曜日のフィーバーを楽しむのである。

人生、苦しむためあるのではなく、楽しむためにあるのである。

そのためには、日常生活の中に、ディズニーランドの空間を作る必要がある。

                           

                        

                    

                     

                  

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2009年5月28日 (木)

「苦しい」を「喜び」に変えるのが人生?

「苦しいこともあるだろう。

言いたいこともあるだろう。

不満なこともあるだろう。

腹立つこともあるだろう。

泣きたいこともあるだろう。

これをジットこらえていくのが男の修行である。」

               

この言葉を読んで、そのとおりだな、と思った。

「男」を「人間」に置き換えたら、そのまま人間修行の言葉となる。

人生は、人間修行のためにあるようなものである。

幸福も成功も、人間修行の目標となり、その成果となるから尊いのである。

           

何もしなくても、幸福や成功があるのでは、幸福や成功に価値はない。

逆境にいるのに幸福を感じる、失敗をするのに成功に至る。

そうなるために、人間修行があり、その成果が、幸福であり成功なのである。

              

安岡正篤師は「喜神」を重視された。

人生には、喜怒哀楽がつきものである。

そのときどきに、喜びあり、怒りあり、哀しみあり、楽しさがあるのが自然だ。

ところが、怒りがあり、哀しみがあっても、それを「喜び」と捉える。

このような人生を目指すのが、「喜神」の考え方である。

              

怒るのが自然なのに、それを喜びに変える。

哀しむのが自然なのに、それを喜びに変える。

これは、人間修行によって考え方を変えることで可能となる。

     

苦しいこと、言いたいこと、不満なこと、腹の立つこと、泣きたいことがある。

そのとき、苦しむ、言いたいこと・不満なことを言う、腹を立て、泣くこともできる。

ところが、ジット我慢して人間として成長し、それらを「喜び」に変えてゆく。

これが人間修行であり、このような人間によって創られる家庭、組織が成長する。

               

最初に掲げた言葉の主は、山本五十六元帥である。

(田舞徳太郎著「ありがとう経営のすすめ」理想と経営6月号から)

                     

100年に1度の経済危機、このようなときこそ、人間修行の最高の機会である。

経済危機にうろたえることなく、ジット我慢して、成長を期して、「喜び」につなげる。

これが求められる人材であり、今は、このような人材を育てる最高の機会でもある。

苦しいときだからこそ、それを「喜び」につなげる人間修行ができるからである。

              

この喜びが、個人的には「幸福」であり、社会的には「成功」なのである。

ある意味では、苦しい現在は、人間が人間として最も輝ける時期なのである。

人間として与えられた無限の創造力を発揮できるからである。

「苦しい」状況を、「幸福」「成功」という「喜び」に変えることが、人間らしさなのだ。

                        

                        

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2009年5月27日 (水)

健康は国家予算を上回る価値がある

私は、小学校から高校まで、「がんちゃん」と呼ばれていた。

小学校の通学途中で、同級生と言い合いの喧嘩となった。

そのとき、相手の口から出た言葉が、「雁(がん)鳥!」

苗字が鳥飼だから、その「鳥」を持ち出し、私の顔が「雁」に似ていたからだろうか。

              

その日以降、「がんちゃん」になってしまった。

ところが、最近は、「しげちゃん」になってしまった。

重和の「重」をとって、女房が呼んでいるからである。

夜の世界に行くと、「とり(鳥)先生」と呼ばれる。

        

このように、呼ばれる名前が変わるのも、成長の証であろうか。

変わるといえば、日本人の体温も大きく変化したようだ。

30年前の日本人の大人の平均体温は、36.8度であるが、

現在のほとんどの人は、35度台だという。

          

この低体温へ変化したことが、病気や病人を増やしている原因だという医師がいる。

私が断食で通っている伊東のサナトリウムの石原結實先生である。

病気になると体温が上がるが、体温が上昇することが免疫力を高めるからである。

平熱より1度、体温が上昇すると、免疫力が5倍になると先生は言っておられる。

                 

逆に、体温が1度低下すると、免疫力が30%弱まるとのことである。

低体温化によって免疫力が低下し、いろいろな病気を増加させているらしい。

うつ病等の精神の不調も、低体温化の影響があるようだ。

             

そうだとすれば、体温を温めることが、病気の予防と治療に良いことが分かる。

そのため、体を温める紅茶、生姜を石原先生は勧めている。

伊東のサナトリウムの各部屋には、生姜湯と紅茶が用意されている。

私は、生姜湯を常飲し、紅茶党になったが、それは、石原先生の影響である。

                

豊かな社会になったので、我々の生活が大きく変化した。

それが良い面もあるが、悪い面もあるだろう。

とくに、健康面に与える変化は大きいように思われる。

低体温化も考慮し、健康のために何が重要かを考える必要がありそうだ。

               

健康であってこそ、幸福も成功も意味があるからである。

国家予算すべて使っても、不治の病を治すことはできない。

1人の健康は、国家予算を上回る価値があるのである。

まさに、健康に勝る財産なし、なのである。

                                 

                    

                       

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2009年5月26日 (火)

成功に一番の近道は何か?

昨日は、名古屋で仕事があった。

時間を作り、昼に松坂屋で、蓬莱軒の「ひつまぶし」を食べた。

それだけで、満足の一日になった。

私にとって、うなぎ料理である「ひつまぶし」は、それだけの価値がある。

                     

話が変わるが、最近、「貯徳」という言葉を見た。

日本一の個人株主といわれる竹田和平氏の著書で見たのである。

「人とお金に好かれる『貯徳』体質になる」という本(講談社)である。

私は、「貯徳」という言葉に違和感はない。

             

「貯」は、お金にまつわるので、一般には「徳」と結びつかない。

一般の人は、徳からお金は生まれないと思っているからである。

                 

ところが、日本一の個人投資家が、「徳から貯金ができる」と説いている。

竹田和平氏の考えは、渋沢栄一著「論語と算盤」の発想と同じなのである。

私の著書である「稼げる弁護士になる方法」も同じ発想である。

お金に縁の遠いと思われがちな「徳=誠実」が、実は、お金の源なのである。

                                                      

竹田和平氏は、著書の「まえがき」に書いている。

               

「心の豊かさに重きを置くことは、

資本主義社会で成功するための王道中の王道なのです。」

                   

「徳と黒字体質、私流の『論語と算盤』を併せ持つのが『貯徳』体質です。

『貯徳』体質を身につければ、一時的でなく、

永続的な富を手に入れることができます。」

                      

この本の中で、成功を目指す一番の近道が紹介されている。

私も同感であるが、今回は紹介しないが、私よりも徹底しているところが素晴らしい。

                           

成功への一番の近道とはなにか?

竹田和平氏はつぎのように書いている。

     

「成功を目指すなら、

感謝の言葉『ありがとう』を

習慣にしてしまうのが一番の近道です。」

               

これは真理の言葉だと思うが、今日は紹介するだけにとどめる。

大いに参考になるので、この本を読まれることをお勧めしたい。               

                         

                  

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2009年5月25日 (月)

人生、元気が大切

このブログにアクセスしていただき、ありがとうございます。

アクセスしていただけることで、エネルギーをいただいております。

          

昨日と一昨日の2日間、このブログを書こうとしなかった。

たまには、ブログを休むのも、いいことだと気楽に考えているからである。

                

このブログを書くことで、書き手である私は元気がでることが多い。

そうであるには、自然体でブログを書く方がよく、無理はいけないと思う。

そのため、ブログは適当に休むのが良いと勝手に思っている。

       

書き手である私が元気でなければ、このブログの良さがなくなる。

ブログの読み手の方達は、幾分でも元気になるつもりで読まれているからである。

ある意味では、ブログを通して、元気の交流をしているわけである。

ブログを通して、私の元気を流し、同時に、皆様から元気をいただいている。

                  

ブログの生い立ちは、当初は、当事務所のホームページの活性化のためだった。

途中で、私の息子への遺言書に変質し、昨年、それを3冊本として息子へ渡した。

昨年の途中から、「元気を発信する」ということに焦点が集まってきている気がする。

読み手の方々の意見から、そのことが分かったからである。

             

今は、「元気」を錦の御旗に、このブログを書こうと思っている。

多少なりとも、「元気」の発信ができれば、それなりに社会の役に立つからである。

このブログが社会に役立つと思うと、不思議に元気が湧いてくる。

人間は本質的には社会的動物で、社会とのつながりによって元気が生まれるからだ。

                 

特に日本人は、元気との関係では、社会性が高いのではないだろうか。

ひとりのときは元気がないのに、仲間と集団になると急に元気になることが多い。

良くも悪くも、集団主義が日本人の特性であり、従来は職場中心だった。

堺屋太一氏のいう職縁社会である。

               

「修身斉家治国平天下」がリーダーの成長の順序であるとすれば、

日本人は集団中心である前に、個人の面で修身を身につける必要がある。

いかに、人間性を高めるかという個人の成長を図ることが基礎にないといけない。

そうでないと、個人の集合体である集団が正しく成長しないからである。

              

その上で、家族を大切にし、家族円満にならないといけない。

家族が円満だからこそ、集団を構成する個人は安心して力を発揮できる。

仕事中心で、家庭をないがしろにしてきた私には言う資格もないが。

           

修身も、斉家も、最終的には、個人が元気をだせる条件整備をいっている。

修身は、個人が、いかなるときも、元気をだせるように修行することだ。

斉家も、個人が後顧の憂いなく元気をだすために必要なことだからである。

          

元気がなければ、幸福も、成功もない。

人生は、元気をだすためにあるのかもしれない。

もっと元気をだせるように、精進したいものである。                      

                 

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2009年5月22日 (金)

昨日は広島、今、事務所

昨日、広島に宿泊した。

お世話になった、元中国税理士会会長のお別れの会があったからである。

今、帰京し、事務所で一仕事終わったところである。

      

今朝、ホテルで読んだ本で、同感することが多かった。

感謝をすることが、いかに素晴らしいかを述べている点である。

いずれ、ご紹介させていただきたい。

これから、外出であるので、これで終わりたい。

     

素晴らしい週末をお送りください。

読んでいただいて、ありがとうございました。

             

                 

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2009年5月21日 (木)

おもてなしの心を味わった

昨夜は、知人の家族と我が3人家族で、「八雁」という店で会食をした。

「八雁」は以前もこのブログで紹介したが、銀座4丁目にある創作料理の店であり、

美味しい料理とおもてなしの心が最高に味わえる店でもある。

一日一組の客が、秋山料理長の料理を見ながら食事できる贅沢な時間を過ごせる。

                  

今回は、我が家の息子と知人のお嬢さんが、料理を作るのに参加した。

一種の客の参加型のおもてなしを受けた。

息子もお嬢さんも、やりなれないことやりながらも、楽しんでいたようだ。

              

献立は、昨夜固有のオーダーメイドなので、参考にならないかもしれない。

一応、このブログの最後に、昨夜の献立をそのまま紹介することにする。

興味ある方は、みていただきたい。

                

従来、「八雁」は、同じ場所にある「六雁」の特別な客しか使わせてもらえなかった。

素晴らしい店なので、9月に出す「TORIKAI TIMES」に紹介したかった。

そこで、一般の人でも、予約すれば、「八雁」を利用できるか否かを聞いてみた。

「和楽」という高級料理雑誌に紹介されたので、一般の方も予約ができるそうだ。

                  

親しく秋山料理長と話していたら、毎日、自分が食べる料理を作っているという。

それが、新しい料理の創作に役立つという話だった。

自分で料理して食べているというので、思わず、私が質問をした。

「料理長は独身ですか?」

              

30歳台半ばの独身だそうである。

しかも、家庭で料理をする等、主夫的なことが好きらしい。

最も大好きなのが、洗濯物をたたむことだそうだ。

         

そのような話しを聞いて、女房が口を出してきた。

「私にも、そのような夫が欲しい。」

私が家庭のことを何もしないので、そのことへの抗議の発言なのだろうか。

最近は、食事の後片付けを手伝っているのに、そう私は言いかけたが止めた。

             

私どもの事務所に、独身の女性弁護士や事務局がいるので、

今度は、希望者を「八雁」に連れてくる等という話で盛り上がってしまった。

いずれにしても、昨夜の会食は、笑い声の絶えない楽しいものだった。

        

7月に取材のために、また、「八雁」の最高のもてなしが受けられそうだ。

今から、その日がくるのが、楽しみである。

                

              

ご参考のために:『八雁』の昨夜の献立をそのまま再現

「     お献立      鳥飼様

                ○○様

 茄子のにゅう麺(知人の要望した料理)

 胡麻豆富 鮑酒蒸し

         

 鱧(はも) 葛うち椀 クレソン 青柚子

       

 石鯛 あおり烏賊 あしらい

       

 加茂茄子の軽い田楽

       

 ぼうぜ(えぼ鯛)の陳皮(オレンジ皮)焼き

        

 シラスと姫韮のかき揚げ(私の母の得意料理で「和楽」に紹介された)

 牛蒡のささがき天ぷら(知人の食べたかった天ぷら)

 じゃがいもの天ぷら(天ぷらの中で、私が最も食べたいもの)

        

 常陸牛炭火焼き 枝豆 トマトフィルム

    

 焼き茄子のすり流し トマト豆富

  

 小柱御飯

 新じゅんさい菜赤出汁 香物

          

 昆布アイス

 DAGASHI(昔の駄菓子のこと)

                     八 雁 

              2009年5月20日

                   秋山能久」 

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2009年5月20日 (水)

世界経済の現状は「タイタニック」

昨夜は、ある人を中心に会食をした。

ある人とは、今回の100年に1度の経済危機を、数年前に予言した方である。

しかも、IMF等のしっかりしたデータに基づいての予言であった。

               

この方に、経済の現状と今後について、聞いてみた。

「タイタニック」というのが答えだった。

映画の「タイタニック」のジャックとローズを思い出した。

                  

IMF等の客観的データを用いて冷徹な目で予測をする、この方の特徴である。

そのため、昨夜も、いろいろなデータを見せられながら、説明を受けた。

その説明は説得力であり、同席した全員が、なるほど、と頷かざるを得なかった。

                                                       

世界経済の現状は「世界不況は序章の終り」の段階で、まだ危機は続く。

これが、この方の結論である。

この結論が正しいかどうかは、歴史が証明してくれる。

人々の幸福を考えると、誤った結論であって欲しい

興味のある方は、エコノミスト5月26日号の「Global Money」欄を見ていただきたい。

               

事務所に来て、机の横に置いてある、卓上カレンダーが目に入った。

昨年、当事務所から知人に配ったものである。

毎月のカレンダーに私が作った短い言葉が書いてある。

それに、イラストレーター描いた温かみのあるイラストがついている。

    

5月の言葉が書いてあった。

「生きるって、感謝することだよ。」

自分で作った言葉なのに、「そのとおりだよね。」と思ってしまった。

この言葉があれば、「タイタニック」も怖くないかもしれない。

                                            

           

                 

               

          

                

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2009年5月19日 (火)

人生の宝探し

「TORIKAI TIMES」という8頁のパンフレットを創刊した。

それを、今日から、知人に送付しようと思っている。

私と事務所に関する情報を提供しようとするものである。

自分で創刊を決めながら、時代の流れだな、と感じている。

             

その中に、07年8月に鳥飼日記に書いたものを掲載した。

「人生の宝探しをしよう」というタイトルである。

人生を考える場合に、参考になるので、紹介させていただく。

                 

「我々は、誰でも、例外なしに、

楽しい人生を送れるように創造された。

それが我々の本当の姿である。

         

ただ、我々の人間性を高めたいと、大自然は、

我々の姿を見えないように隠した。

その姿を人生の秘訣という宝としたのだ。

             

我々の人生は、この宝を探すためにある。

そして、その宝を楽しむためにある。

人生は、その宝を探す冒険である。」

                  

その宝は、どこに隠されているか。

この日記を読まれている方は、分るだろう。

                                      

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2009年5月18日 (月)

「りんごから教えを受けた人」から教えを受けた

昨日の午後、プチ断食を終わり、自宅に帰宅した。

1日だけの断食、あとは、七分粥と玄米食だから、健康には良い。

1.5Kgの減量であるが、少し体が軽くなった気がする。

                 

今年は、あと、5回、プチ断食をすることにしている。

最も長いもので、5泊6日の予定である。

今年は、日常の生活習慣の改善に重点を置くことにしたからである。

                    

ただ、短い期間でも、静かな環境に身を置くことはいいものだ。

ゆったりとした時間の流れの中で、自分を見直すことができるからだ。

読んだ本では、「りんごが教えてくれたこと」が良かった。

木村秋則氏の著書であり、日本経済新聞出版社刊行の本である。

                      

肥料なし、農薬なし、という自然農法で、りんごの栽培に成功したことを書いている。

従来、肥料と農薬で、やっと栽培できるのが、「りんご」だったようだ。

その意味では、肥料なし、農薬なしの自然農法は、不可能とされていたという。

その不可能を可能としたのが、著者の木村氏だったのである。

              

不可能を可能にした人の話は、実に興味深い。

我々にも、従来の限界を超えて、「できる」という自信を与えてくれるからだ。

そして、「なるほど」とうなずけるような言葉がいろいろ出てくる。

                                      

「りんごを実らせるのはりんごの木です。

主人公は人間ではなくりんごの木やイネです。

人間はそのお手伝いをしているだけです。」

           

よく考えてみると、当たり前であり、その通りである。

ところが、この当たり前のことに気づかないのが人間である。

よく考えるから、原理原則である当たり前のことが分かる。

                          

だから、人間にできることは、

「りんごを育ちやすいような環境のお手伝いをすることぐらい・・・

人間はもっと謙虚であるべきだと思います。

人間は支配者ではなく、自然の中に人間がいるよと考えるべきです。」

                     

この言葉の応用範囲は広いと思われる。

人間と社会の関係、経営の考え方、夫婦の関係、子どもの教育方針等、

いろいろな面で活用できる考え方だ。

                

木村さんは、りんごの木に話しかけるらしいが、それにも効能があるようだ。

「同じ品種でも声をかけたものは枯れませんでした。」

でも、

「声をかけなかった82本の木は枯れました。

私は感謝の気持ちがまったく欠けていました。」

               

木さえ、声をかけてもらうかどうかで、違いが出る。

自分のことを考えると、近くにいる人に声をかけないことが多いのに気づく。

それは、感謝の気持ちの足りない証拠だと教えられたようだ。

                                         

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2009年5月16日 (土)

プチ断食のために伊東に来ている

今、伊東のサナトリウムに来ている。

昨夜から、プチ断食をするためである。

2泊3日で、1日を断食し、あとは、七分粥と玄米食である。

それでも、1キロ以上は減量できるし、何より体調がよくなる。

                

プチ断食は、今年2回目である。

昨年までは、9泊10日で、そのうち、7日が断食だった。

それを、年3回か4回、やっていた。

         

そのやり方も体調を考えると悪くはない。

しかし、仕事を休むわけにもいかないので、平日は、東京に出ることになる。

このやり方であると、疲れは残るし、心にゆとりがないことが問題だった。

そのため、今年はプチ断食を試そうと思ったのである。

               

これから、一碧湖まで、散歩する予定である。

天気はよくないが、雨は降らないような空模様だ。

別荘地を通って、湖まで歩くコースは散歩としては最高の環境である。

前回のように、桜が咲いている風景はないが、空気は澄んでいる。

              

今朝は、サナトリムにある露天風呂に入ったが、ほのぼのとした幸せ感がある。

絶景はないにしても、露天風呂に入っているというだけで十分なのである。

こんなとき、幸せが、身近にあることを実感できる。

               

何の脈絡もないが、ふと、最近覚えたての曲を歌いたくなった。

「若葉」というスピッツの歌である。

                

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2009年5月15日 (金)

深夜、息子と話しこんでしまった

昨日は、夜の12時ごろに帰宅した。

ちょうど、息子が風呂あがりであったが、暫し、話し込んだ。

嬉しいことに、息子から質問されたからである。

         

昨日、息子が大学の友人と議論をしたようだ。

「心の広い人とはどういう人のことをいうのか」についての議論だったらしい。

人の考えを受け入れて妥協するのが心の広い人なのか等という議論のようだ。

ある意味では、議論のための議論をしているような面がある。

                 

このような議論でも、論理的な頭を作り、感情面の説得を体得するには意味がある。

息子には「実学」を身につけて欲しいと思っているので、その面からの話しをした。

議論は何のためにするか、という目的を持った方が良い、というアドバイスである。

ディベートなら、説得力を身につける目的があるから、それに沿うやり方がでてくる。

                       

実学では、議論が人生等の実際の役に立つことを目指すものとなる。

学ぶことは、何事があっても物に動じない人物を作り上げるためにある。

つまり、「修身」それ自体が、学ぶことの意味であり、実学の基礎になる。

「心が広いかどうか」は、その見地から議論すると実学的になるとアドバイスした。

                  

息子は、中国の古典を読むのが好きだから、「大学」の次の言葉を知っている。

「修身斉家治国平天下」という人間の成長の順序を述べたものである。

家庭を円満にし、国家を治め、天下を統治するには、修身が基礎になる。

不動心ともいうべき考え方を身につけることが人生の基礎なのである。

                     

息子は、自分の知っていることからの説明だったので、理解したようだ。

修身という側面から、「心の広さ」を自分なりに考えてみるということである。

いささか難しいことを息子には話したのかもしれない。

              

息子と、息子の人生に通じることを話し合えたことは嬉しかった。

親として、息子の成長に少しでも貢献できれば、これ以上の喜びはないからだ。

深夜の1時間ぐらいの会話だったが、大いなる満足感があった。

そのためか、熟睡して、目覚めたのが、いつもより2時間以上は遅い6時前だった。

                                      

        

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2009年5月14日 (木)

最悪の環境でも、考え方を変えて、幸せになれるのか

5月13日にいただいたコメントに対して、回答を書きたくなりました。

コメントで、このブログの狙いをズバリ言い当てられました。

「みんなに元気を与えようという視点で文章を書いている」

             

その通りですが、同時に、私にも元気が湧いてくるものです。

「情けは人のためならず」です。

人を元気にしようと思うと、私も元気になるものです。

                                             

人のために尽くそうとすると、それが後で自分に跳ね返ってくるのです。

社会に役立つことをする(仕事)と、後日、報酬として報いられるものです。

「仕事の報酬は仕事」、その循環で、後日、大きな報酬が受け取れるのです。

これが、私の著書「稼げる弁護士になる方法」の最大のテーマでした。

                  

「『考え方が変われば行動も変わる』本当にその通りだとおもいます。                

 わたしも、このブログをよんで元気になるからです。

 ただ、私自身は自分自身の環境がめぐまれているから、

 そのように思えるのかと思うときもあります。」

         

環境に恵まれていることを認識し、感謝に近い気持ちをもたれているようです。

それは、とても、すばらしいことです。

できれば、明確に、恵まれた環境に対し、感謝の言葉を言われると最高ですね。

感謝って、生きるエネルギー、つまり、元気の最大にして無限の泉ですから。

                  

悪い偶然の環境にも触れられています。

「身内の重大な犯罪被害に巻き込まれた、

無理心中に巻き込まれてしまった子ども・・・

そういった人の気持ちははかりしれない。」

              

そのとおりだと思います。

そこから、「考え方を変えることで人生が変わる」というのは、

最悪の環境にいる人達には当てはまらない、というお考えになったようです。

                                          

つまり、最悪の環境にいる人達はその環境の与える影響に圧倒される。

その結果として、自分の考えを変えて、最悪の環境を最良の環境に変える、

ということはできないのではないか、と主張されているのでしょう。

                  

確かに、最悪の環境にいるときに、その環境の影響から解放されるのは至難です。

犯罪被害者の身内がいれば、犯人を恨むのは自然な感情です。

無理心中に巻き込まれれば、子どもが親を恨むのも自然な感情です。

このような自然な感情を否定することはできません。

                

でも、このような憎しみを持って生き続けるのは、幸せな生き方ではありません。

罪のない人達が、幸せに生きられないのは可哀そうです。

では、このような人達にも、幸せな生き方を生きることはできないのでしょうか。

                     

このような場合に、幸せになる考え方に変えることは難しいでしょうが、

でも、ありがたいことに、人間は「考える」という無限の力が与えられています。

人間の考え方には、「恨み続ける」ことも、「許す」ことも、いずれも可能だからです。

              

「恨み続ける」考え方をとれば、幸せから離れる可能性が高いでしょう。

難しいですが、「許す」考え方に変われば、幸せに近づく可能性が高くなります。

難しい許す考え方を勧めるのが、狭き門から入れ、という宗教の教えになります。

              

三重苦を克服したヘレン・ケラーを「奇跡の人」と捉えるのか。

凡人だと認識している我々にも、同じような奇跡が備わっていると捉えるのか。

この捉え方の違いが、難しいことでも考え方を変えて克服できるかどうかを決めます。

これが、人間を大きな目で捉えた場合の真相でしょう。

                     

本来の人間は、すばらしい存在で、どんな環境に置かれても、

幸せな生き方ができるのではないでしょうか。

これを真実と認めるかどうか、それが人生の岐路だと思います。

                  

我々は、日常、現実に捉われて生きています。

でも、ときには、現実から離れて、本当の人間・自分はどのようなものか、

を考えることも必要なのではないでしょうか。

           

誰でも、いつからでも、最高に幸せな生きカができる。

私は、そう信じます。

                             

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2009年5月13日 (水)

幸福は幸福になる考え方から生まれる

昨日の午前中は、中野サンプラザで、税理士会の研修講師をした。

通常、講義の中心になるのは、法律技術的な知識・ノウハウになる。

ところが、昨日の講義では、知識を求め、ノウハウを生み出す源について話した。

つまり、「考え方」の重要性を述べたのである。

                

正しい考え方をすれば、望ましい知識に出会い、必要なノウハウを生み出す。

これは、人生における幸福でも成功でも同じことである。

幸福は幸福になる考え方から生まれるものである。

成功は成功する考え方から生まれるものだからである。

                    

正しい考え方に立てば、税理士は何をすればいいかが見えてくる。

世間で非常識のように思えるものが、実は当たり前のことであることが分かってくる。

その当たり前のことを実行すると、必然的に成功し、稼げるようになる。

この実体験を書いたものが自著の「稼げる弁護士になる方法」なのである。

               

したがって、この本は、考え方を書いた本であり、ノウハウ本ではない。

むしろ、社会常識では、「弁護士」と「稼げる」は矛盾する観がある。

だが、「儲け」の原理からは、「弁護士だから稼げる」ことが当たり前なのである。

矛盾と考える社会常識が、「儲け」についての考え方から外れているのである。

             

同じことが、税理士にも言える。

税理士は公益的存在だから、「儲ける」という発想が誤っている、

と税理士自身も、社会も、思っている。

              

でも、公益的存在だからこそ、「儲ける」ことができるというのが正しいのである。

昨日の講義では、この考え方を丁寧に説明し、講義を組み立てた。

多数の税理士が来場されていたが、最後、ありがたいことに盛大な拍手だった。

そのことで、私の言いたいことが理解していただけたと実感した。

                

人間は考える動物であるから、考えること、考え方が決定的意味を持つ。

結論的に言えば、人間の幸不幸・成功不成功は考え方で決まる。

つまり、考え方を変えれば、現在の不幸が未来の幸福につながるものだ。

              

考え方が変われば行動が変わる。

幸福になる考え方をすれば、幸福につなる行動になり、幸福をつかむ。

              

たとえば、幸福につながる言葉を使うという行動になる。

人を非難せず、人を誉める言葉を選ぶことになる。

その結果、誉められた人との関係が深くなり、良い縁が結ばれる。

この縁によって、すばらしい人との出会いがあり、幸福を呼び込むことになる。

                 

世の中には、親切な方がいるものである。

「稼げる弁護士になる方法」の読者から、この本の記載の誤りを指摘された。

私が弁護士になったのが、本では、42歳からとなっている。

ところが、実際は、43歳からではないか、という指摘をされたのである。

                 

調べてみると、その指摘が正しい。

私自身は、42歳から弁護士になっていたと思い込んでいたが、誤りだった。

司法試験に合格したのが39歳であったが、それから、3年後に弁護士になった、

そう認識して、39+3=42 という計算で理解していたからである。

        

ところが、私は3月の早生まれであり、4月から弁護士になったのであるから、

4月を基準として、正確に計算するjと、40+3=43 と理解すべきだった。

「3」の中身は、司法研修所の2年間と入所を遅らせた1年を加算したものだ。

3月には、弁護士登録の準備に入るから、心は既に弁護士になっていたのだろう。

                        

いずれにしても、客観的データに基づかなかった私のミスである。

恥ずかしい限りであるが、私の杜撰な性格がでている、ともいえる。

それにしても、よく気づかれたものだ、と感心してしまう。

               

むしろ、誤りを指摘していただき、反省の機会を与えていただいた。

その点を率直に感謝したいと思う。

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2009年5月12日 (火)

一日遅れのプレゼント

昨日は、珍しく、自宅で夕食をとった。

息子はクラブ活動らしく帰宅しておらず、女房と二人だけでの食卓である。

我が夫婦は、お互い関連した仕事をしていることもあり、会話があるほうである。

昨夜は、会話はあったが、女房は疲れた表情をしていた。

              

午後9時30分ごろ、息子が帰宅した。

その手に、花を持っていて、それを女房に渡した。

一日遅れの母の日のプレゼントだという。

このような心遣いは、どこで学んだのだろうか、と不思議でならない。

              

私の前では、疲れきった表情の女房だったが、その表情が一変した。

本当の笑顔とはこういうものだ、というような心からの嬉しさを表す顔になった。

その晴れやかな表情からは、疲れはどこかに飛んでいった感じに見える。

         

疲れは、肉体的なものよりも、精神的なものが大きな比重を占めている。

このことを実感させられた。

息子のささやかなプレゼントだけで、雲散霧消するのが疲れの正体なのである。

             

私は、女房の疲れに対して、何か働きかけをしたのだろうか。

「疲れているようだね、大丈夫?」

「無理しないで、早く寝なさいよ」

思えば、このぐらいのことしか言っていない。

                

この言葉では、女房の心の疲れを癒すことにはなっていないようだ。

女房を癒してくれた息子には感謝しなければならないが、

私としては自分自身の行動を反省しなければならないようだ。

               

そういえば、思い出した。

我々の結婚披露宴のとき、女房の友人のインタビューがあった。

「ご主人の困ったところって何ですか」

「女心がぜんぜん分からないところです」が女房の答えだった。

          

なんのことはない、私は今も昔も変わっていない、のである。

                                                

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2009年5月11日 (月)

昨日は、三越まで歩いてしまった

昨日の午後、市谷の自宅から日本橋の三越本店まで、歩いた。

初めは、九段下ぐらいまで歩くつもりだった。

ところが、天気のよさに背中を押される感じで、約1時間30分の散歩となった。

汗をびっしょりになったが、気分は爽快であった。

                

三越本店の1階は化粧品・アクセサリーの売り場であるが、客で混んでいた。

私の行き先は、地下1階の食料品の売り場である。

母の日でもあるので、息子の母である妻のために、夕食の食材を買うためである。

食料品売り場は、1階以上に、客で混雑していた。

                     

統計数字では、百貨店の売上は下降状態が続いているようだ。

しかし、百貨店の売り場に行って混雑ぶりを見ると、不景気なのか疑問になる。

それでも不景気だというなら、従来の景気がよほどバブル状態だったのだろう。

百貨店が混んでいる風景を見ると、危機感を実感するのは難しいかもしれない。

                              

三越の食料品売り場に並べられた食材は実に豊富であり、美味しそうでもある。

我が家の夕食の食材を探しながら、日本は豊かな社会だと実感した。

気づいてみると、買い集めた食材が一杯詰まった袋を両腕で持っていた。

結局、昨日の夕食分だけのつもりが、2、3日分の買い物になったようだ。

     

私の買い物も、危機感に欠けている買い物なのかもしれない。

でも、消費者が危機感を持ってしまっては、景気がよくなる筈はない。

安心して、食べたいものを買う客が多くなってこそ、景気はよくなる。

浪費する必要はないが、景気浮揚のため、大いに買い物を楽しみたいものだ。

   

いささか、自分の買い物の言い訳をしているような気もする。

                     

                                                     

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2009年5月 9日 (土)

空からのギフト

昨日は、雨だった。

自分中心に考えると、その表現は正しい。

ところが、少し視点を変えると、つぎのような表現にすることもできる。

雨雲の上空は、さんさんと太陽が輝いている晴天である。

               

昨日の夕方、東京では、きれいな虹が見えたようだ。

室内にこもっていた私は、残念ながら、その虹は見ていなかった。

ところが、今朝の午前2時ごろの知人のメールで、その虹を見ることができた。                 

ビルの谷間を背景にした見事な虹の写真が添付されていたからである。

              

まさに、「虹の架け橋」と呼べるような美しい映像である。

そのメールで、その虹のことを、知人がつぎのように表現していた。

「空からのギフト」

確かに、雨模様の中で、空から贈られたギフトのように見える。

                 

虹を見て、単に、「虹を見た」と受け取るのが普通かもしれない。

ところが、それを「空からのギフト」と捉える人もいる。

別の人は、その虹に向かって、祈りのチャンスと捉えるかもしれない。

私が虹を見たら、自然に、あることを祈っていただろう。

              

同じ虹を見たことでも、それぞれに人の反応が異なる。

たったひとつの現象でも、それぞれの人生が反映するものである。

人間というのは、考えれば考えるほど、面白い存在である。

自分がそのような存在であることを知れば、人生がもっと彩り豊かになるだろう。

                            

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2009年5月 8日 (金)

茄子のてんぷらか、焼き茄子か

茄子(なす)といったら、何を思い浮かべるか?

「一富士、二鷹、三茄子」という縁起の良い初夢か。

「秋茄子は嫁に食わすな」の意味か。

人それぞれ、思い浮かべるものが違うであろう。

               

私の場合、息子のことと茄子料理を思い浮かべる。

幼い息子に、嫌いなものが「茄子とお父さん」といわれたことがあったからだ。

忘れっぽい性格の私だが、不思議に、この言葉だけは残っている。

仕事と家庭とのバランスが必要だという警告の言葉だったのである。

                          

食べるのが生きる楽しみになっているから、茄子といえば料理を思い浮かべる。

子どものころ、母の実家だった宮城県白石市の農家で茄子の味噌汁を食べた。

その時の味の美味しさは、今も、鮮明に記憶として残っている。

もぎ立ての茄子という素材の新鮮さが、美味しさのベースにあったのかもしれない。

                       

ナスの食べ方はいろいろあり、それぞれに味わいの異なる美味しさがある。

ところが、メタボになると、美味しさの追求よりも、カロリーを気にするようになる。

そのため、悲しいことであるが、カロリーで、茄子料理を選択するようになる。

           

「茄子のてんぷら」と「焼き茄子」とでは、カロリーはどのぐらい違うのか?

この違いを、友人の辻・本郷税理士法人の本郷孔洋理事長が教えてくれた。

毎月、本郷理事長から送られてくる広報誌の中に、この違いが書いてあった。

          

茄子の天ぷら(2本)は、「120Kcal」 。

焼き茄子(2本)は、「35Kcal」 。

なんと、茄子のてんぷらは、焼き茄子の3.4倍のカロリーなのである。

メタボとしては、無視できない数字である。

             

ちなみに、「揚げ出し豆腐」と「冷奴」では、カロリー差は2.6倍だそうである。

「ぶり大根」と「しらすおろし」では、カロリー差は2.8倍もあるようだ。

「焼き餃子」と「生春巻き」では、カロリー差は2.5倍あるという。

この差が、毎日の積み重ねの上で、メタボを作り上げているのである。

                 

人生でも、毎日の考え方の向きというわずかの差の積み重ねが決定的意味を持つ。

考え方が「前向きか、後ろ向きか」の差が、幸不幸・成功不成功を決める。

あるいは、上昇志向の角度の1度の差が、結果として大きな差異となる。

                    

本郷理事長の広報誌の記事を見て、メタボ対策の基本的発想が分かった。

茄子のてんぷらを食べるのは、たまの楽しみにして、焼き茄子を中心にする。

食べないという発想ではなく、たまに食べることの楽しみに変えようと思う。

                     

そういえば、来週、ある店で美味しいてんぷらを食べる約束があった。

でも、その店でてんぷらを食べても、翌日の体重は増加しないのである。

我ながら、食べることについては、意思が弱いと思ってしまう。

焼き茄子も良し、茄子のてんぷらも良し、というのが本当の健康なのだろう。

             

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2009年5月 7日 (木)

意思の弱い人でも幸福になれる本

一昨日の夜、「明日の7時30分に打ち合わせをしたい」というメールがあった。

ある事件を担当している当事務所の弁護士からである。

                         

私は、返信のメールを出した。

「7時30分とは、朝の7時30分か、夜の7時30分か」

回答のメールは、「朝の7時30分」であった。

                  

仕事に、時間帯は関係ないし、祝日かどうかも関係がない。

そこで、私も、昨日の朝の7時前に事務所に入った。

すでに、事務所には他の弁護士がいて、部屋を点灯したら、目を覚ましたようだ。

前日から徹夜仕事のようであるが、この弁護士にとっては日常的な光景である。

                 

打ち合わせには来客があり、午前10時過ぎまで協議が行われた。

会議後、出席した当事務所の3人の弁護士達は、新幹線で別な場所に移動した。

緊急案件であるため、連休を返上して仕事をしている人達がいるのである。

             

私は、昼前に、帰宅した。

そこで、書斎の机周りの整理整頓をした。

机の周囲には、膨大な資料と書籍の山ができている。

机に座ると、文字通り、資料と書籍の山に囲まれた感じになる。

                 

昨日の整理整頓で、この山を何とか平地にできた。

まだ、書斎全体からすれば、十分な整理整頓をしたとはいえない。

今度の土日にもう少し頑張ってみたいと思っている。

                 

今朝は、午前3時30分ごろに起床し、仕事関係の処理をした。

この数日、早い時間帯から就寝しているので、目覚め後の気分が良い。

最近は、遅寝早起きになっているので、疲れがたまっていた感じだった。

やはり、早起きには、早寝が必要なのであろう。

                  

今朝から、5月末までに、ある本の原稿を校正をしなければならない。

一般の人向けの本を出版するつもりだからである。

意思の弱い人でも、自らの手で幸福や成功を手に入れられるという本である。

最近は、自分の本業である弁護士業以外に、このような本を書くようになった。

                 

これは、鳥飼日記というブログを書くようになったことが原因のようだ。

最初の2年間は、息子への遺言のつもりで、このブログを書きつづけた。

そのために、人生において重要な考え方を書いた。

人間とは何か、人生とは何か、幸福・成功に到る考え方を書いたわけである。

               

人間は考える動物であり、それゆえに成長する動物でもある。

そのため、人生は「考え方」次第だという点を繰り返し書くようになった。

それを見た人が出版の話を持ってくるようになったというわけである。

             

私の書いたものの特長は、人を元気にする点にあるようだ。

人間は、元気になれば、楽しく、何でもできるものである。

その意味では、私の書くものも社会に役立つ面が多少はあるかもしれない。

そう思って、これからも、専門分野以外の本も出版しようと思っている。

                           

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2009年5月 5日 (火)

子どもの日は、女の子の日でもあるのだが・・・

今日は、子どもの日であり、端午の節句でもある。

子どもの日が休みとなるのは、祝日を定める法律による。

それによれば、子どもの日は、祝われる対象を男の子に限定していない。

「こども」としか書いていないから、女の子も含んでいる。

             

祝日法では、5月5日について、要約すれば、次のように定めている。

1つは、子どもの人格を尊重すること

2つは、子どもの幸福を図ること

3つは、母親に感謝すること

              

男の子も、女の子も、子どもであれば、人格が尊重され、幸福が図られることを、

祝日を設けて、親や社会に認識し、実行を促そうとしているのである。

同時に、生み、育ててくれる母親に、感謝の気持ちを持つよう子どもに促している。

ここでは、両親とせず、母親に限定し、父親は除かれている。

                 

誰でも、例外なしに、母親から生まれ、それに基づき幸福な人生を歩める。

そうであれば、幸福な人生を歩もうとするなら、母親への感謝は欠かせない。

ただ、母親だけに感謝というのは、ことの本質からは的が外れている。

両親があって、母親からの誕生があるのであるから、両親に感謝するのが正しい。

              

祝日法は、法律の定めどおりに守られているのか。

社会の風習・慣行が、祝日法という法律を超えたところで生きている。

祝日法は女の子を含む「こども」を掲げているが、社会は男の子だけを対象とする。

社会の風習・慣行である「端午の節句」という男の子を対象とした行事になっている。

                    

端午の節句は、中国では、健康祈願をする行事だったようだ。

その意味では、男の子を対象としていない。

健康を祈願するために、邪気を払うものとして、菖蒲(しょうぶ)が用いられた。

現在でも、菖蒲湯に入るのは、邪気払いによる健康を祈願してのことだ。

              

ところが、端午の節句は、日本に来て変化する。

鎌倉時代に、武士の時代らしく、「菖蒲」と同じ音の「尚武」を尊重したようだ。

そこで、端午の節句を男の子を対象に限定し、その健康と成長を祝うようになった。

これが現在に受け継がれ、男の子限定の行事となったのである。

          

鎌倉時代以来の伝統は、現代の祝日法を超えた存在となっている。

社会全体から支持されない法律は、社会の中での存在感がかすむことが分かる。

女の子を含む「こども」と法律が叫んでも、伝統を尊重する社会に見向きもされない。

社会の人々に尊重されなければ、法律は生きたものとならないことを実感した。

                       

現在の社会は、子どもの人格を尊重し、その幸福を図るようになっているか。

ここで最も重要なのは、子供に対する教育である。

ここでは、家庭教育、学校教育が中心になるだろう。

いずれも、教育として問題を抱えているのが実情ではないだろうか。

                    

子どもの教育で、最も重要なのは何であろうか。

人間の持つ素晴らしさを教え、どんな環境に置かれても、幸福になる道がある、

このことを教えることが、教育の最も重要な点ではないだろうか。

換言すれば、学問と同義となるが、何事においても動じない人間を創ることである。

                 

せっかくの子どもの日である。

行楽もいいが、連休でもあるから、じっくり、子どもの将来の幸福を考え、

そのために、何が最も重要な点なのかを考えるのも意味があるように思える。

将来の日本を託す相手は、今の子ども達以外にないことを忘れてはならない。

                                                                                                        

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2009年5月 4日 (月)

挫折の先に希望がある

「挫折をすがすがしく語る。そこから希望が・・・・」

これは、5月2日付朝日新聞「フロントランナー」欄の記事の表題の1つである。

           

希望学という学問領域があるそうだ。

東京大学社会科学研究所の玄田有史教授が中心になっているようだ。

希望を、個人の心の問題から、社会のあり方の問題として捉えようとしている。

                 

同教授達のアンケートの結果から、次のような結論がでたという。

「無駄と思える努力が希望につながる」

「挫折の先に希望がある」

               

この結論は、正しいのではないか、そう私の体験からいえる。

希望は未来に視野を広げ、その未来に明るい望みを持つことである。

このような前向きな思考をできる人には、希望学の教えは必要がない。

希望を生み出す考え方が身についているからだ。

             

希望を生み出すには、希望を生み出す考え方を身につける必要がある。

その1つの方法が、無駄と思えることに努力することがある。

努力は行動することであるが、行動が良い考え方にたどり着くことがある。

この行動は、良い考え方にむすびつけやすい行動が望ましい。

              

好きでもない仕事でも、一生懸命にやると、良い考えにつながる。

一生懸命に仕事をするうちに、好きでもなかった仕事が好きになるからである。

通常の仕事であれば人の役に立っているから、人の役にたつ喜びを感じる。

仕事に打ち込むと、自分の能力の向上もあるから、できる自分に自信が持てる。

              

このように、現実の仕事をしているうちに、喜びがあり、自信をもてるようになる。

さらに、仕事をしていくうちに、自分の適性が分かり、やりたいことが出てくる。

あるいは、一生懸命の仕事振りから、他の人から別の仕事に誘われることもある。

その意味では、「無駄」と思える努力が自分の未来に希望をもたらすのである。

                      

換言すれば、現在の「無駄」は、未来における「無駄」ではないのである。

「無駄」と思う現在の考え方が、人間として未熟なだけなのである。

現在の仕事を、自分にとって必然的なものだと捉えることが重要である。

それを一生懸命やることが、未来の自分、未来の希望をもたらしてくれるのだ。

                 

現在の仕事を必然的なものと捉えないのは、人生を逃げた生き方であり、

未来の希望から遠ざかる生き方であることを知る必要がある。

努力は絶対に無駄にならない、そう信じることから真の人生が始まるのだ。

                  

行動は、別に仕事でなくてもいい。

早起きでも、日記を書くでもいい、掃除でもいい、毎日の祈りでもいい。

それを継続できれば、自分もやればできる、という自信につながる。

「できる」という自信を持てば、未来に対する「できる」ことの希望が湧く。

したがって、今やっていない良いことを継続してやれば、希望をもてる。

                

希望を持てない人は、何か1つでもいい、良いことを実行していない人である。

何もしないで、希望が持てないと悩んでいる。

さらに、希望が持てないと思い込んでいるために、何もしない、一生懸命にならない。

厳しいい言い方をすれば、、怠け者と呼ばれても仕方がないのである。

             

逆に言えば、怠け者と気づき、自分を変えれば希望を持てるようになる。

たとえば、掃除をすれば運が良くなる、といわれるがその通りである。

自宅の水周り、事務所の男性便所、ホテルの便所等で、掃除をする。

いつしか、習性になってしまえば、この掃除の習慣で得ることは、実に多い。

                 

掃除とバカにするけれど、それはやらないから分からないだけである。

論より証拠である、やってみれば、掃除がいかにすばらしいかが分かる。

当初は掃除をするのに、恥ずかしいという気持ちがあるが、

いつしか、その気持ちがとれ、これはささやかな勇気を持てることにつながる。

       

挫折は何かをしたから感じるものであり、、何もしなかったら、挫折など感じない。

ある人を好きになったとしよう。

その人に、そのことを伝えなければ、挫折することはない。

勇気を奮って好意を伝える行動を起こすから、拒絶されると挫折になる。

                    

挫折には行動があるから、挫折が希望につながる可能性がある。

挫折から、いろいろな思考が出くるからである。

再挑戦もあるだろうし、別な出会いを待って新たに行動することもあろう。

いずれも、行動が、新たな思考を生み、未来の希望をもたらすのである。

           

問題なのは、挫折で思考が停止することである。

挫折が、未来の希望を、そいて未来に行動することの思考を停止するのである。

挫折から本当の人生が始まる、という人生の真相が分からないからだ。

このことを個人的に知る機会を作るのが、家庭、学校における教育である。

ところが、最近の教育が知育中心であるため、人生の真相を教えない。

                 

そのため、希望学という学問領域が生まれたのである。

その学問領域の問題は、社会的教育問題に尽きる気がする。

                         

繰り返しだが、掃除は、自分の後の人が清々しい気持ちで使えるようにすることだ。

このように、他人のためにすることの清々しさは何物にも変えがたい気持ちだ。

この掃除が習慣化すれば、他のことも習慣化できるという自信が湧いてくる。

では、次に何をしようかと考える、これは未来の希望を考えることでもある。

                     

行動する人にとっては、希望は、次々に湧いてくるものなのである。

行動は人間の考えと連動するから、その考えが未来を向くと希望につながる。

行動するのならば、できれば、未来の希望につながりやすいものがいい。

前向きな言葉を使うのも、未来に希望を持ちやすい行動である。

         

自分の周りに、いくらでも行動の種は転がっている。

希望を持つ種は、見つけるのに苦労しないくらい多いのである。

                                                  

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2009年5月 3日 (日)

素直になって、「われ以外、皆わが師」で幸福と成功を

「稼げる弁護士になる方法」という本を出版した。

幸い、売れ行きは好調だと、出版社から報告を受けている。

すでに、3刷まで増刷されているようだ。

               

この本は、主に、知り合いの弁護士や税理士に贈呈した。

この本を読んで、30冊とか、50冊の本の注文をされる方もいる。

所属の弁護士や税理士等へ配布して、所内研修で使うためだという。

素直に私の本から、いいところを見つけ出し、それを活用しようというのである。

                     

この本は、私の過去の体験を素直に書いたものである。

私の性格は自分でいうのもおかしいが、素直そのものである。

したがって、聖賢の書の教え方を素直に信じ、素直に実行した。

それは、人間として、当たり前のことを当たり前に実行することに尽きる。

                  

人間にとっての真理は目に見えないが、それを発見した聖賢がいる。

それによると、人間にとっての真理は、実に単純であることが分かる。

しかも、人間なら誰でもできること、つまり、当たり前のことが中核なのである。

したがって、当たり前のことを当たり前に続けると、人間は楽しい人生が送れる。

                    

私も、その当たり前のことにたどり着き、当たり前のことを実践してきた。

その実践の一部を取り出して書いた本が「稼げる弁護士になる方法」なのである。

弁護士として当たり前のことに気づき、実践すると稼げるようになるという本である。

この本の内容には、裏も表もなく、当たり前のことの指摘とその実践を書いたものだ。

               

ただ、読んだ方の受け止め方は様々である。

当たり前のことの重要性に気づかれ、希望が持てたという人もいる。

当たり前は知っていたが、実践していなかったと反省される方もいる。

このように前向きに捉えられ、いい所を受け入れる方がいることはありがたいことだ。

                     

ただ、一部の方に、この本に批判的な方がいることも確かである。

「稼げる」という本を出すこと自体、弁護士としての品位を落とすという批判がある。

本の表題だけを見れば、その批判は当たっている面があることは確かだろう。

このような批判に言い訳しても仕方がないから、甘んじて批判を受け止めたい。

                 

内容を読んで、当たり前のことを書いているから読む価値なし、との批判がある。

読んだ方の批判だから、その読者にとって、価値のない本なのだろう。

それは、読者の批判の自由であるから、そうでしたか、というほかない。

何か行動を起こせば、必ず批判はついてくるから、批判に反発する気はない。

                    

批判は読むことを前提としているから、読んでいただいただけでありがたいと思う。

できれば、その批判から、私の反省につながることがないか、を学びたい。

批判を批判としてでなく、せっかくの批判であるから、それからでも学びたいからだ。

「われ以外、皆わが師」、つまり、誰からでも学べるという発想が正しいからである。

               

出版した本を批判されて、自殺した有名な作家がいる。

人格的な面での批判をまともに受け止めたからである。

どのような猛毒的批判でも、受け止め方ひとつで、毒を薬に変えることができる。

これが人間の特質であり、人間の目に見えない真理だからである。

                    

ただ、批判のための批判からは、学べるものが少ない。

むしろ、反面教師的に、単なる批判派にはなるまい、と学ぶことが多い。

今回の批判から、学んだことがあるとすれば、次の点である。

幸福とか、成功とかを、特別なことと考えている人がいる、という点である。

                 

つまり、当たり前の中に、幸福や成功の種があるのを否定しているのである。

通常の人がやっていないことをやっているから成功者になれた、と思い込んでいる。

幸福や成功は、自分の考え方次第で簡単に手に入ることを信じない。

幸福者・成功者が少ない現状から、幸福や成功が足元にあることを認めない。

               

こういう人には、この考え方を変えなければ、幸福にも成功にも無縁だ。

本の読み方にも、幸福になり、成功するための読み方がある。

批判されていることを見ると、本の読み方が実践的でないと思えてならない。

                      

現在の自分を、より幸福・成功に近づけるヒントを得るのが本の読み方である。

そうなら、簡単に幸福・成功の近づくヒントがあれば、それを実践することだ。

1つでも、いいところが本に書いてあれば、その実践から幸福・成功が得られる。

                 

私の出版した本を批判するのは自由だし、それをとやかく言うつもりはない。

私の出版した本を読んで、それを活用されない人がいることが寂しいだけだ。

1人でも多くの方に、幸福者・成功者になって欲しいと念願するからである。

                  

我々は例外なく、幸福な人生、成功する人生を生きれるようになっている。

そのような人生は、当たり前のことの実践で容易に手に入るようになっている。

これは、人間の目には見えないが、人間の真の姿なのである。

そのことを、多くの聖賢が、いろいろな言い方で伝えようとしているのである。

                

私が著書である「稼げる弁護士になる方法」は、その聖賢の教えの実践で、

幸福となり、成功したことの私なりの実践を正直すぎるぐらい正直に書いたものだ。

その意味では、弁護士でなくても、多くの人に活用できるように書いている。

    

要点は、簡単である。

自分も、幸福・成功する考え方になれば、幸福・成功することができると信じる。

そのために、幸福・成功するための当たり前のことは何かをつかむこと。

最後に、その当たり前のことを実践し、それを継続すること。

             

これだけなのであるが、多くの人はこれが身につかないのである。

つまり、素直さと実行力・継続力に欠けるところがあるのである。

「思いが実現する」のが人間であるが、思いが続かないのである。

究極的に言えば、思いの実現は、熱意があるかどうか、にかかっている。

                     

幸福や成功は、足元にある。

そのため、気づかずに、踏みつけてしまう。

自分の足元に注意を払えば、幸福や成功は容易に手に入る。

               

我々は、幸福になるために、成功するために、生まれてきた。

そのために、幸福になる、成功する、は容易に手に入るようになっている。

              

今日は憲法記念日であるが、憲法は人間が幸福になるためにある。

そのために、人間の無限の可能性を示す自由を重視している。                                  

人間の自由を幸福の実現のために活用することを認めているのである。

この自由の意味を噛みしめ、ありがたいことだと感じるのが今日の意味である。

                     

自由を正しく捉えたいものである。

「松下幸之助翁は、貧困の家庭にもかかわらず、成功者となった。」というのは誤り。

「松下幸之助翁は、貧困に捉われず、成功を目指したため、成功者となった。」

これが正しい答えである。

                

人間の無限の可能性を示す自由からは、貧困の家庭環境は、

いささかも、成功の障害物にはならないからだ。

むしろ、貧困の家庭環境に、心が捉われないで、成功を夢見る自由を活用できる。

その意味では、豊かな環境にいる人よりも、自由への渇望があったのである。

                      

松下幸之助翁の最もすばらしい特徴は、素直さである。

この素直さが、人間の無限の可能性を信じたのである。

無限の可能性を実現するため、社会に役立つ目的を持つことの効用を発見した。

つまり、目的=経営理念という「思い」が実現することを信じたのである。

                      

松下幸之助翁の素直さは、「われ以外、皆わが師」の発想につながる。

素直に学ぶことで、幸福・成功のある人生の王道を歩みたいものである。               

                               

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2009年5月 1日 (金)

思いを実現するプロセス

昨夜は、お世話になった方と会食した。

その際、つぎのような会話があった。

 

同席者: 男に持たしてはいけないものが2つあります。

      1つは、権力、もう1つは、お金。

ある方: でも、それがなかったら、男としての価値がない。

              

ある方は女性だから、タイミングの良い突っ込みが冴えていた。

頼り甲斐のある男が少なくなったという話しの過程でのやり取りだった。

ある方は独身でもあり、その実感を込めた言葉で、会食者全員が大笑いだった。

                       

さて、今日も、昨日に続いて、このブログへのコメントについてのべたい。

電機メーカーの研究開発に携わっている34歳の技術者のコメントである。

それは、このブログへの感想であった。

             

感想の対象は、4つである。

1つは、大器晩成、2つは、「できる」ということ

3つは、社会正義、4つは、早起きの効用である。

             

技術者が大器晩成を期すると、すばらしいことになる。

10年後、20年後にしっかり花を咲かせるように、日々の水撒きをされる、という。

日々の努力と長期的未来の展望のバランスがとれているのは見事で嬉しくなる。

            

「できる」という点について、なるほどと頷くことをコメントされている。

「自分が『できる』と信じることが、継続的な努力・創意工夫を可能として

自分の力を十分に引き出し、結果として『できる』につながるのだと思います。」

お見事、そのとおり、という他ない。

       

技術者らしく、「思いが実現する」という言葉の意味を実現のプロセスで捉えた。

『できる』という思い→継続的努力等→自分の力の発揮→結果、『できる』を実現

『できる』思い→結果に至るプロセスとしての実行→結果としての『できる』の実現

これは科学的な説明方法であり、納得できるものである。

              

「社会正義」では、不祥事を起こす大企業に情けないとの感想があった。

社会に貢献することに企業の原点があることを忘れている現実があるのは確かだ。

企業の原点・先人の教えからは、倫理は企業の存続・成長に貢献する秘訣である。

儲けは「信」「者」から成り立ち、利益の真の源泉が社会の信頼にあることを教える。

          

コメントを下さった方は、早起きの効用を実践で得ているようである。

始業前に2時間を確保しているとのことである。

早起きの効用として、自信をえることにあると、次のように述べている。

          

「(早起きで)自分のことは自分でコントロールできている感覚が、

自信につながります。

この自信で、一日を積極的にスタートできます。」

          

この指摘はそのとおりである。

早起きが自信につながる点の指摘が重要である。

自信ができれば、誰でも、何事も「できる」ようになるからである。

               

早起きは、『できる』自信につながり、同時に、努力創意工夫の時間を与えてくれる。

こうなれば、鬼に金棒であり、人生における幸福と成功が手に入る。

              

コメントはありがたいものだ。

私自身、教えられることが多いからだ。

コメントに感謝する他ない。

                     

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