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2009年4月30日 (木)

社会には良い循環が起きるものだ

4月28日の日記にも、コメントがいくつかあった。

そのコメントを紹介し、それについての感想を書かせたいただく。

それをもって、コメントへの回答としたい。

           

「すばらしいご両親ですね。私もそうなりたいと思いました。」というコメント。

とても、嬉しいコメントでした、ありがとうございます。

           

1人の方でも、「私もすばらしい両親になりたい」と思っていただけただけで、

その1人が人生に目的を持つようになり、人間として成長する機会が生まれる。

その結果、この方のお子さん、家族に良い意味での影響がある。

この影響がお子さんや他の家族の方を通し、社会へ良い波紋を及ぼす。

                     

そう考えると、1人の方に良い意味での影響があることの意味は大きい。

その点から、私は、日記を書いた意味があると実感でき、

さらに、また日記を書こうという勇気が湧いた。

             

人間社会は実に面白い循環が起きるところである。

私が日記を書く→ある方が心を変える→他の人へ影響する→影響が広がる

コメントで私は勇気をいただく(これが日記を書いた報酬)。

それによって、新しい日記を書き、人に読んでいただくという良い循環が生まれる。

                    

将来の弁護士を目指すロースクール生からのコメントがある。

弁護士界での競争に備え、差別化のために公認会計士の資格を考えているという。

このコメントに回答したい。

         

ロースクール生として、まず、考えるべきは、今おかれた状況に対応すること。

ロースクール生という恵まれている環境を生かして、大いに勉強することである。

また、すばらしい先生や友人にめぐり合える機会を大いに生かすことである。

加えて、司法試験で合格するための準備を怠らないことである。

                 

弁護士としての差別化は、弁護士になった後のことだから。

優先順位が高いのは、司法試験に合格することである。

差別化は、通常の場合、弁護士になってからで十分間に合う。

                    

その上で、差別化という面からすれば、複数の資格は不要である。

弁護士資格があれば、頭を使えば、いやというほど差別化が図れる。

ただ、会計や監査に関する弁護士業務をやりたいなら、

公認会計士になり、そのキャリアを生かす方法も考えられる。

                

コメントの背景には、恐れの感情があるように見受けられた。

人生、恐れる必要はない。

弁護士界の将来性は明るいのが実態であるので、それを知れば、

あまり、社会の騒音に捉われる必要はないし、恐れることはない。

              

あと1人のコメントに対する感想は、明日、書かせていただくことにする。

                              

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2009年4月29日 (水)

踊りの世界に国の宝がいた

日曜日だった4月26日に、国立劇場で、ある踊りの会があった。

そこに、知り合いが何人か踊るので、その踊りを見に行った。

国立劇場の舞台で踊るまでに、一年近く練習を積むという。

                

踊りの会の2日前の金曜日に会ったら、普段とは異なり、大いに緊張していた。

昨夜は、踊った人の慰労会を開いたが、実に、爽やかな表情に戻っていた。

大きな演技を終わった後の安堵感と充実感とがあるように感じた。

                  

実際、踊りは艶やかで、見る者を踊りの世界に集中させるだけのものがあった。

観客のいない中での1年間の練習の成果が見事に花開いていた。

この華のある踊りを、踊りの後輩達が見て、感動していたようだ。

ひとりの華のある踊りが、波紋を広げたのである。

             

昨夜の会合に同席していた若い後輩達は、口々に言っていた。

2年後に、国立劇場という同じ舞台に立ちって、踊りたいと。

このことを語る表情には、2年後に実現する夢を見ている輝きがあった。

                             

一隅を照らす者は国の宝だという。

1人の踊り手は自分の踊りで、一隅を照らし、後輩達に夢を与えた。

この踊り手は、国の宝になったのである。

どういうところにも、灯りを照らす者はいるが、自分もそうでありたいものである。

                        

                    

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2009年4月28日 (火)

両親の暗示が今に生きている

昨夜は、久しぶりに、弟の家族と会食をした。

そのとき、義妹から、昔の私の話がでてきた。

結婚前の私の生き方が面白くて仕方がなかったというのである。

                    

私自身では普通に生きていたつもりであるが、どうも普通ではなかったらしい。

司法試験に合格していないのに、毎週、土日は終日、優雅にテニスを楽しんでいた。

また、まともな社会人とはいえないのに、不思議にいろいろな女性と交流していた。

長期断食をするなどを考えあわせると、確かに、普通ではなさそうだ。

                                

それでいて、両親は私の将来は何とかなる、そう信じていたらしい。

そのことは、私も感じていた。

結局、弟の家族と両親についての昔話をしていると、

今の私は、両親の思い描いたとおりの生き方をしているように思えてきた。

               

ありがたいことに、両親は、私に、良い意味での暗示を与え続けてくれた。

父は、お前は弁護士向きだから、最後までがんばれ、としか言わなかった。

母は、お前は大器晩成の運命だから、50歳すぎから良くなると思え、といい続けた。

両親から非難された経験は記憶にはなく、終始、温かく見守ってくれた気がする。

                  

両親が私に暗示を与えたとおりに、今の私がいることは疑いを入れない。

長い歳月を経て、ようやく両親のありがたさをつくづく感じるようになる。

言葉による暗示とは、人生の決定的な方向性を決めるもののようだ。

昔話は過去の話であるが、将来に良い意味の教訓に満ちていることも事実だ。

                     

良い暗示なら、日常的に、自分に与えるのが良い。

良い暗示なら、自然な形で、子どもに与え続けるが良い。

                  

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2009年4月27日 (月)

無理難題の仕事を頼まれたらどうするのか?

他人から、無理難題の仕事を頼まれたらどうするのか?

無理難題だからと断るのか。

この問いに、作曲家の坂本龍一氏は次のように答える。

                                 

「普通、人間は自分で自分に無理難題を出すことはない。・・・・・

けれど、他人はやるんです。・・・・・

でも、そういう人と仕事をすることが自分の限界を広げる重要な機会になってくる。」

             

無理難題の仕事が、自分の限界を広げるチャンスだと捉えるのである。

だから、問いに対する答えはつぎのようになる。

「幸運なことに思いもつかない仕事をやれと言われたら、

まず自分をそこに投げ込むことです。」

                 

無理難題は、自分で考えている限界を超える面がある。

ところが、坂本氏は、経験から、無理難題を自分の限界を超えるチャンスと捉える。

その捉え方から、無理難題に自分を投げ込むことを勧めるのである。

それによって、自分の知らない現在の自分の限界を超える自分の才能に出会う。

                     

人間が考える合理性は、自分の現状の限界を前提とする。

ところが、自分の現状考える限界は限界ではないのである。

そのことを知るには、限界を超えていることに入っていくしかない。

「虎穴に入らずんば、虎子を得ず」だからである。

        

坂本龍一氏の無理難題を前向きに捉える発想が、現在の名声につながっている。

この話しは、4月26日付朝日新聞の「朝日求人」の欄に掲載されていた。

なかなか、いい話である。

             

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2009年4月26日 (日)

実際の人生にいい影響を与えることが学ぶ意味

昨日の夕方、家族で、「レッドクリフ」という映画の完結編を鑑賞した。

三国志における最大の戦いである赤壁の戦いを描いた作品である。

ハリウッド並みのスケールの大きな映画であり、迫力満点であった。

そのせいか、久しぶりに、眠らないで、最初から最後まで、映画を見た。

                    

「レッドクリフ」の前編は、息子とふたり、劇場で鑑賞した。

その後、その映画のDVDを購入し、先週の日曜日にそのDVDを見た。

歴史物の映画が好きである。

人物に興味があるため、人物像が明確に描かれる歴史物が好きなのだろう。

                    

歴史物で描かれる人物は、必ず、壁にぶつかりながら、それを克服しようとする。

その姿が、自分の人生と重なり、自分の人生にプラスのイメージを与えてくれる。

「レッドクリフ」だと、呉の周瑜、蜀の孔明、魏の曹操に関心を持つ。

             

呉の周瑜では、困難な意思決定をしている点に興味がある。

呉軍3万人で、圧倒的な数の魏軍と戦う意思決定をするときの心境はどうだったのか。

よほどの自信と計算があっての決断だったのだろう。

               

孔明は、参謀の重要性を教えてくれる。

秀吉の運のよさは、竹中半兵衛と黒田如水という二人の参謀を得たことにある。

弁護士は良い参謀になる役割があるが、日本では、その機能が生かされていない。

弁護士が仕事を待つ習性であるため、良い提案をする役割を忘れているからだ。

             

曹操は、赤壁の戦いでの敗北後、立ち直っている。

漢の丞相の地位にとどまり、自ら帝王にならなかったのはたいしたものだ。

周の文王という立派な先人を自分の手本としたからである。

清濁合わせ飲み、人を受け入れる度量の広さに魅力を感じる。

                 

生き生きと人物が活躍する歴史は面白い。

面白いと思うのは、人物が教えてくれることを、自分の実際に使えるからだ。

つまり、歴史は人物論を通じての実学なのである。

自分の人生に役立つことが面白さの基礎にあるのは間違いない。

                

実際、私の場合、坂本龍馬、北条早雲等が私の人生に活用されている。

安岡正篤師は実学の発想を用いて、歴代の首相・経営者を導かれた。

実際の人生に関係のないことを学ぶことに私は興味を持てない。

実際に人生にいい影響をもたらす実学こそが本当の学問ではないかと思う。

               

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2009年4月24日 (金)

メタボ対策を楽しい遊びに

目の前におかれたものは、すべて食べつくす、これが従来の夜の会食だった。

最近、夜の会食の際に、大いなる変化がある。

メタボ対策のためである。

             

最近、夜の会食では、炭水化物を少なめに摂るようにしている。

筍ご飯でも、お代わりはもってのほかで、少なめに盛ってもらう。

さらに、わがままが言える店では、野菜を多めに食べさせてもらう。

炭水化物を少なめにした野菜中心の会食だと、体重は増えない。

              

一昨日の夜に行った銀座の店は、野菜中心の懐石料理の店である。

60年以上、野菜の卸をやっていた人が開いた店である。

美味しい野菜が食べられる店があると、知人が紹介してくれた。

この店に行ったのは、「TORIKAI TIMES」の取材のためである。

                

「TORIKAI TIMES」は、5月に依頼者等に配る予定の事務所の広報誌の名称である。

年、3、4回ぐらい、発行するつもりでいる。

その広報誌に「私の三ツ星レストラン」という欄を設ける予定になっている。

この欄のために、実際に食べに行く取材が必要だったのである。

                  

料理にはいろいろなコースがあるようだ。

私は、最も量が少ない野菜だけの「旬の野菜づくしコース」であった。

同行した人達は、野菜+魚のコース、野菜+魚+肉のコースであった。

肉好きの私は肉のあるコースを食べたかったが、メタボ対策のため我慢した。

                     

野菜づくしだったが、さすが野菜の卸だけあって、美味しかった。

店のパンフレットに、「口福(こうふく)」と書いてあったが、そのとおりだった。

私のお腹も、「幸腹(こうふく)」だった。

       

ゆっくりしたペースで旬の野菜を食べた。

デザートは「ふきのとうのドーナッツ」で、新鮮な味がした。

同行者は、すべて知人の女性であったので、話が盛り上がった。

そのためもあるのか、会食が終わるまでに、4時間かかった。

                    

翌日の朝、体重計に乗ったら、体重が減っていた。

やはり、「野菜づくしのコース」が良かったのであろう。

炭水化物を減らした野菜中心の食事は、メタボ対策になるようだ。

                     

今日の夜の会合は、中華料理である。

行く店は、一品ごとの料理が美味しい上に、量が少ないとはいえない。

そのため、メタボ対策上は、注意が必要だ。

ただ、美味しく食べるために、炭水化物だけに気をつけようと思っている。

             

確かに、このごろ、疲れ気味であるので、メタボ対策は必要である。

でも、単なるメタボ対策だけでも、つまらないし、私は長続きしない。

どうせやるなら、楽しく、長続きするものにしようと思っている。

野菜中心の美味しい店を探すのも、そのための工夫の1つなのである。

              

女房と、ある約束をした。

12月31日朝に測定する私の体重次第で、飴とムチがあることになったのだ。

真面目な人に怒られるかもしれないが、メタボ対策を遊び感覚にしたのである。

飴は私が一番やりたいこと、ムチは私が最も避けたいこと、なのである。

             

人生、選択肢があるから、選択次第で、「人生、いろいろ」になる。

メタボ対策を真面目にやるのも人生。

メタボ対策を1年を通しての楽しい遊びに変えるのも人生。

私は、メタボ対策で楽しい方を選択したのである。

               

               

                

              

             

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2009年4月23日 (木)

「当たり前」を「ありがたい」に変えると奇跡が起こる

勇気がでる話を読んだ。

「理念と経営」5月号(コスモ教育出版)にある記事である。

「『当たり前』と思うか、『ありがたい』と思うかで、人生は大きく変わる」という題。

株式会社吉寿屋の神吉武司会長の言葉を以下に紹介したい。

                  

「物事はええように解釈しないと絶対に損です。

物事をええように捉えて、絶対自分でそうなっていくと強く思うことで、

本当にそうなっていくんです。

会社も、人生も、楽観的に前向きに解釈していくと画期的にようなっていきます。」

              

私の仕事観、成功観、人生観、幸福観とまったく一致した考え方である。

それは、過去の聖賢の考え方である自然の理、人間の真理だからである。

誰でも、人生は、考え方ひとつで幸福も、成功も、必ず手に入ることを教えている。

                    

この考え方は、すべての物事を幸福・成功に結びつけて考えることだ。

安岡正篤師は、これを「喜神」と呼ばれた。

「物事をええように捉えて、絶対に自分は」喜びに満ちた人生を送ると思うことだ。

神吉会長は、安岡師の教えを受けたかどうか知らないが、実践されている。

                      

さらに、信用について、次のように言っている。

「信用というのは目に見えない貯金だ。」

これも、「義は利の元なり」という商売の王道を理解している言葉である。

「儲け」が「信」と「者」の組み合わせで、人からの信頼が利益の泉なのである。

                    

最後に、当たり前のことに「ありがたい」と感謝することの重要性を述べている。

「目が見えること、手足が動くこと、家族がいること」は当たり前である。

ところが、この当たり前のことを「ありがたい」と捉えて、感謝するのだという。

両親に生んでいただいたことも「ありがたい」と捉えて感謝することも同じである。

           

「当たり前」のことを「ありがたい」という感謝に捉え直すと人生は豊かになる。

心が豊かになるような「ええように解釈」したものだから、「ええように」なるのだ。

当たり前に囲まれた人生が「ありがたい」に変わるのだから、喜神が宿るはずだ。

「人生・・・画期的にようなっていきます」とは、喜神による奇跡の訪れを指している。               

当たり前のことで溢れている毎日が、感謝すべき奇跡に変わるのだから。

                 

「当たり前」を「ありがたい」と捉えることが人生の王道である。

そうであれば、人生は、幸福に満ち溢れ、自分なりの成功感に酔いしれる、

私の言葉で言えば「豊潤な」ものとなるだろう。

人間、誰でも、いつからでも、考え方を変えるだけで、豊潤な人生を送れるのだ。

       

つくづく思う。

人間は、誰でも、幸福感に溢れた豊潤な人生を送るために生まれてきたことを。

            

喜神に満ちた本当の人生は、神生(じんせい)と呼ぶにふさわしい。

「苦しい」「悲しい」と嘆いているのは、生まれてきたことの意味を知らない人だ。

そのような人にとって、人生は刃(やいば)に傷つく「刃生(じんせい)」なのである。

「神生」を送るか、「刃生」を送るか、それは自分の考え方次第である。

                                                  

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2009年4月22日 (水)

実際年齢は、今の年齢の7掛け、元気をだそう

実際の年齢をどう考えるのか。

これは幸福な人生を考える上で、重要なことである。

生命年齢よりも若いと思えれば、人間、楽しく生きられるからだ。

          

人生50年といわれたのが、今では、100歳以上の方が多くなってきた。

そうだとすると、自分の年齢の半分が実際年齢ということになる。

50歳の人は25歳、70歳の人は35歳、80歳の人は40歳となる。

これは、実感としてピンと来ない気がする。

           

人生50年に対し、今の平均寿命は80歳位である。

そこで、年齢の6掛け(正確には、0.625)を実際年齢と考える。

50歳の人は30歳、70歳の人は42歳、80歳の人は48歳となる。

これも実感として、いまひとつという感じである。

          

キッコーマンの茂木友三郎会長は、7掛け、8掛けがちょうどいいと言われている。

4月21日付日本経済新聞夕刊の「こころの玉手箱」の欄である。

         

年齢の7掛けで考えてみると、次のようになる。

50歳の人は35歳、70歳の人は約50歳、80歳の人は56歳となる。

年齢の8掛けで考えると、次のようになる。

50歳の人で40歳、70歳の人で56歳、80歳の人で64歳となる。

               

このような捉え方をすれば、「50、60は鼻たれ小僧」というのも頷ける。

少子化の時代には、年齢の高い人達の頑張りが必要である。

その意味では、70歳、80歳で一人前ぐらいの発想がふさわしい。

したがって、自分の年齢の7掛けを実際年齢と考えたいものである。

           

この計算方法だと、私は、まだ、鼻たれ小僧にもなれないほど若いことになる。

実に愉快な捉え方であり、人生がパーッと明るく元気になる。

今夜は、友達を誘って楽しく夜の街に繰り出そうという気になる。

そういう人が多くなれば、今の不景気風を吹き飛ばせる。

          

人生を楽しくするために頭は使うものである。

定年だとしょげるのは、素晴らしい頭脳を腐らせることになる。

まだ、実際年齢は40歳ぐらいなら、これからが本当の人生の始りなのである。

一旗あげるぐらいの元気、勇気があってよいのではないだろうか。

              

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2009年4月21日 (火)

人は皆、花咲か爺さん

昨日の午後は、総会担当者を対象に株主総会に関するセミナーをした。

昨年も、同じ時期に同じテーマでセミナーをした。

ありがたいことに、今年の受講者は、昨年よりも、多かった。

           

先週も、役員を対象に株主総会のセミナーをした。

これも、昨年と同じ時期、同じテーマの恒例のセミナーだった。

ここでも、昨年以上の受講者数だった。

              

このように、セミナーの受講者は減っていないと思っていた。

そうではなく、不況の影響で法律関係のセミナーの受講者が激減しているという。

企業業績の悪化に連動するように、受講者数が半減しているセミナーが多いらしい。

こういうときこそ、研修に力を入れて、将来に備えるべきなのに、残念なことである。

                  

企業業績の悪化という現象に捉われて心が限界を設定したためだろう。

企業業績を良くするには、業績の悪化という現象を飛び越える必要がある。

人間には無限の可能性、無限の創造力があるのだから、何でも飛び越えられる。

心が限界を設定し萎縮したところで、飛躍・発展は望めないのではないのか。

                 

そこで、以下に、人間が幸福になる原理原則を考えたい。

それによって、人間が限界を超える力を持っていることを思い起こしたい。

企業人に元気になって欲しいからである。

              

人間は、人間の限界を超えた文明を創ってきた。

船舶、自動車、飛行機を思い浮かべれば分かる。

         

船舶は、人間の泳ぐ限界を超えた。

それは、鯨より速く、長い距離を航行できる。

        

自動車は、人間の走る限界を超えた。

それは、ピューマより速く、長い時間を走行できる。

         

飛行機は、飛べない人間の限界を超えた。

それは、鷹よりも高く、遠いところまで飛行できる。

             

人間は、人間の限界を超えるところに本質がある。

それを可能にするのが、人間の持つ心である。

        

その心は、無尽蔵の創造力をもつ土壌である。

土壌に夢という種を播くと、夢を現実のものにする。

             

幸福に生きたいなら、この原理を応用すればいい。

心の土壌に、幸福の種を播けばよい。

         

そうすれば、心の土壌に、幸福の根が張り、

幸福の花を咲かせ、幸福の実を稔らせてくれる。

             

誰でも、どのような悪い環境にいても、いつからでも、

心の土壌に幸福の種を播けば、

幸福の花を咲かせ、幸福の実を稔らせることができる。

       

人は皆、「花咲か爺さん」なのである。

                    

                           

                        

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2009年4月20日 (月)

素直に信じることが幸福の門

過去の鳥飼日記の見直してしていることは、以前、述べた。

昨日も、いくつかの見直しをしたので、その1つを紹介したい。

    

人生は、単純な原理に支配されている。

そのため、幸福な人生を送るのは簡単である。

         

人生は、人間の心の持ち方次第で決まる、

という自然の大原則があるからである。

          

「できる」と思えば、そのとおりになる。

「できる」と信じることが、「できる」と信じたことを実現する。

       

「できない」と思えば、そのとおりになる。

「できない」と信じたことが、「できない」現実を創る。

           

そうだとすると、「できる」と素直に信じることから、

自分の望んでいる幸福な人生の第一歩が始まる。

         

素直に「できる」と信じることは、幸福の門なのである。

素直な人は、「できる」と素直に信じて幸福の門から入り、

気づいてみると幸福になっている人である。

        

                          

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2009年4月17日 (金)

人に助けられて幸せに

昨日は、ほぼ一日、名古屋だった。

ホテルに缶詰状態なので、大好物のひつまぶしを食べる暇がない。

仕事なのであるから、当然といえば当然のことである。

             

たまには、お預けというのもいいことなのかもしれない。

ひつまぶしに対する密やかな恋心が持続できるからである。

「恋は秘するにあり」というが、ひつまぶしに対する私の恋心も似ている気がする。

                

昨日の夜は、馴染みの店に行った。

そこでは、最近、私用の特別メニューがでてくる。

山盛りのキャベツ、魚肉ソーセージ入り野菜炒め、こんにゃくのソーメン等だ。

完全にカロリーコントロールされた料理である。

        

でも、ありがたいことに、料理の味は実に美味しい。

一流の板場に申し訳ないと思いながら、我がままを通させていただいている。

お陰さまで、体調は良いし、体重も減量の傾向が出てきた。       

いろいろな人に迷惑をかけながら体調を維持し、減量をしようとしている。

           

「人」は助け合う姿を文字にしたものである。

最近、人に助けられて生きていることを実感することが多くなっている。

そのため、ありがたいな、と自然に感謝の気持ちが湧いてくる。

                  

このような感謝の気持ちが多くなると、不思議なことだが、さらに人が助けてくれる。

その結果、思いがけないいいことに恵まれ、更に感謝の気持ちを持つようになる。

これを運がいいというのだろうが、人間は幸せになるようになっている気がする。

                         

人間を幸せにする仕組みが社会という人の集まりなのである。

人間は、その幸せになる仕組みの中で生きているのである。

幸せになる仕組みの中核をなすのが、相互の助け合いなのである。

そのように考えると、社会に生きることのありがたさが分かる。

                                            

               

               

                

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2009年4月16日 (木)

自分が思っているよりも限界はもっと上にある

「自分が思っているよりも限界はもっと上にある」

誰でも、人間の能力は高いのに、勝手に自分でそれを低く見がちな点を指摘している。

「できることをできないと思う習性」をズバリと言い当てた言葉である。

                

この言葉を言った人は、井村雅代さんである。

シンクロナイズドスイミングで著名なコーチである。

日本チームを立派に育てた後、中国チームのコーチとなった。

1年8ヶ月の短期間で、中国チームに北京オリンピックで銅メダルをもたらした。

                  

井村コーチの言葉を新幹線の中においてある「WEDGE」という雑誌で読んだ。

自分に限界を感じるのは、運動能力の高い選ばれた選手にもあることがわかった。

ところが、名伯楽のコーチから見ると、限界はもっと上にあるのである。

               

このことからすると、次のことが言えるだろう。

一般の人は、もっと自己の能力を低く見て、低いところで限界と考える。

人間の能力は、無限で限界がないと捉える方が真実なのにである。

つまり、「広大無辺」といわれるぐらいなのが人間の創造力なのにである。

                

「我々の考えというものは無限だ、と私は見ているのです。

ある日時をかけていればそれは無限になっていきます。」

(松下幸之助著「不況に克つ12の知恵」PHP総合研究所)

                               

これは、経営の神様の松下幸之助翁の言葉である。

人間事象である経営の観点からの人間の無限性を説いた言葉である。

スポーツの世界も人間事象であるから、井村コーチと共通することになる。

人間の本質については、経営とスポーツとでは共通だからである。

                  

我々の人生にも同じことが言えるだろう。

誰でも、自分らしい本当の人生よりも、非常に不自由な生き方をしている。

それは、誰のせいでもない、自分が自分の生き様を限定しているからである。

大きく、伸びやかな、楽しい人生を送れない、と自分で勝手に決めているのである。

                  

本来、人生の在り様は無限の中からの自由な選択によるはずである。

それが、無限の可能性を持っている人間の本当の姿だからである。

このことを井村コーチの言葉が教えてくれている。

                 

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2009年4月15日 (水)

神様との再会 母を偲んで

神様と再会した。

再会した神様は、料理の神様である。

        

4月3日の日記に、料理の神様に出会ったことを書いた。

盤鹿六雁命のことである。

この料理の神様を崇敬した料理長のおもてなしの心の真髄を紹介した。

               

その店は、銀座四丁目近くの「六雁(むつかり)」であると紹介した。

実際には、同店の最上階の8階にある「八雁」というのが正しい。

その「八雁」のことが、「和楽」(小学館)という高級雑誌に掲載されていた。

親しい友人から、その雑誌を見せられて、料理の神様に再会した思いになった。

                

「八雁」の存在は、知る人ぞ知るという隠れ家的な存在であった。

それが、「和楽」に掲載されたのであるから、正直なところ、びっくりした。

「八雁」は、「一客一亭」という、おもてなしの究極を求めたシステムをとっている。

料理長が、一日一組の客だけを主賓とし、客に合わせてその場で料理をする。

               

「『和食』の新名店へようこそ」というテーマで紹介されている。

最初に「八雁」の入り口の写真があり、そこに「八雁」の表札がかかっている。

ところが、実際の客としてその入り口に立つと、別の表札になっている。

それを客が見た瞬間、心が自然におもてなしの世界に入ることになる。

             

胡麻豆腐の写真が出ている。

先日、食べたので、その味わいを思い出してしまった。

これは、ほかに客の要望に応じて作った作品だという。

その題がいい、「妻をねぎらう」

              

懐かしく感じる料理長の写真が出ていた。

秋山能久さんという方である。

控えめにしながらも、料理人としての品性を感じさせる人であった。

                 

私が驚き、感動したのは、次のページにある写真を見た瞬間である。

「母を偲んで」という題を添えて写し出された料理である。

私の母の創作料理である、「韮(にら)と白子」のてんぷらである。

                

「和楽」を贈呈してくれた友人が言ってくれた。

「この写真を見たら、きっと、お母様も、喜んでくださるでしょうね。」

秋山料理長は、このてんぷらを母への陰膳として、卓上に添えてくれた。

きっと、この「和楽」におけるてんぷらの写真も、母への陰膳となるだろう。

                 

一昨日は、名古屋泊まりであり、昨日は、一日名古屋で仕事だった。

そのため、今日の日記は、他のことを書こうと思っていた。

ところが、思いがけなく、「和楽」の「母を偲んで」に感激し、

店の了解も得ないまま、「八雁」のことを書いてしまった。                 

                  

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2009年4月13日 (月)

そこに咲くだけで 美しくあれ

プチ断食が終わった。

10日(金)の午後から11日(土)の午前10時までの断食。

ほぼ1日の断食だから、プチ断食というべきものである。

        

11日は、午前10時と午後5時、2回の七分粥だった。

12日(日)も、午前10時に七分粥を食べて、帰宅の途についた。

2泊3日のプチ断食は、かくして終わった。

その間の体重減は、1.3Kgだった。

               

11日(土)は、食前に、「さくら(桜)の里」に行った。

宿泊先のサナトリウムから歩いて30分ぐらいにある桜の名所である。

いろいろな品種の桜があって、どの季節に行っても、何らかの桜が咲いている。                 

                 

今回は、桜の盛りが過ぎているので、葉桜ばかりかと思っていた。

予想通り、多くの桜は、満開の時期を過ぎたことが分かる咲きぶりだった。

ところが、数は少ないが、今を盛りとして満開の花を咲かせている桜もあった。

それらの桜を見るだけで、十分に桜見物をしたような気になった。

                 

さくらの里の帰り道、桜並木のあるところを歩いていた。

そのとき、道端に咲いている花が目に入った。

花の名称は分からないが、色彩の鮮やかな花であった。

                                

「桜だけが花じゃないよ。私も花よ。」

そう言いたげな風情に見えた。

確かに、桜ばかり見ていたが、道端を見ると、いろいろな花が咲いている。

それぞれを見れば、可憐に見える花も少なくない。

                

桜の花ばかり見ていたためだろうか。

むしろ、他の花を見ると、新鮮に感じるから不思議だ。

そのとき、私が最近、カラオケで歌っている歌の歌詞を思い出した。

中孝介さんの「花」という歌である。

              

「もしもあなたが 雨に濡れ

言い訳さえも できないほどに

何かに深く   傷ついたなら

せめて私は  手を結び

風に綻(ほころ)ぶ 花になりたい

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

花にように 花のように

ただ、そこに咲くだけで 美しくあれ

人はみな  人はみな 

大地を強く踏みしめて それぞれの花 心に宿す」       

             

道端に咲く花も、そこに咲くだけで美しいのであろう。

桜見物の際に、そこに咲くだけの花の美しさに触れた。

考えてみると、人は誰でも、道端の花なのかもしれない。

         

そうだとすれば、道端に咲いている私を、誰かひとりでもいい、

一瞬でもいい、目にとめて見て欲しい。

できれば、言った後で忘れても言いから、美しいといって欲しい。              

人はみな、 そう思って、それぞれに可憐に咲いているのだろう。           

             

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2009年4月10日 (金)

今日から、短い断食

今日から断食に入る。

とはいっても、果たして断食と呼べるものなのかは、疑問である。

         

昨年まで、年、3、4回の断食をしていた。

1回の断食では、9日間、伊東のサナトリウムに宿泊する。

ジュースを飲むだけの断食を7日間行う。

これが標準的な断食だった。

 

今回は、今日から2泊3日であるから、ほとんど断食にならない。

今日の夜はジュースだけにし、土曜日と日曜日の2日間は、七分粥である。

つまり、実質上の断食は、1日間に過ぎないからである。

          

昨年までの断食だと、平日は東京に出て仕事をすることになる。

仕事が忙しいと、伊東の帰るのが夜中になることもあった。

そのこともあって、今年は、滞在期間を短くしてみようと考えた。

伊東では、金曜日から月曜日までの滞在にし、その回数を増やすことにした。

             

いつもは、夜の宴会で、過食気味になっている。

健康のためには、この生活習慣を改善する必要がある。

この改善の代わりに、従来は、断食をしている感じがあった。

             

断食が素晴らしい健康法であることは、体験で知っている。

ただ、従来は、断食の素晴らしさに頼りすぎていたことも確かだ。

そのため、食べることが大好きな私は、過食の習慣を改善しなかった。

             

やはり、本当に健康になるには、日常の生活習慣を正しくする必要がある。

楽しく充実した未来を考えて、そう思うようになった。

日常の生活習慣を主とし、断食をその支えとする、という発想になりつつある。

                    

このブログも、明日、明後日は、休筆としたい。

13日の月曜日から、再開させていただきたい。                

                    

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2009年4月 9日 (木)

祥月命日、創立記念日、息子の入学式の3つが重なった

昨日は、3つのことが重なった。

1つは、私の父の祥月命日だった。

2つは、私どもの法律事務所の創立記念日だった。

3つは、息子の大学の入学式であった。

             

父は病院で死んだが、病院から搬送するときのことをはっきり覚えている。

桜は満開であり、風に桜の花びらが舞う中での搬送だった。

思い返せば、映画の場面で見たようなシーンだった。

                 

私の事務所の開設の時期と父の死が重なっていた。

開設したばかりの事務所で昼は働き、早めに事務所から葬儀場へ行った。

その結果、毎年、父の命日と事務所の創立記念日が重なるようになった。

                 

事務所も、私1人と事務局2人で始めたが、今年中に、弁護士30人体制になる。

理想からすれば、まだまだ、ではあるが、ようやく、陣容が整ってきた感じはある。

私どもの事務所は、明るい雰囲気という特徴がある。

若い弁護士が多く、自由な空気の中で溌剌と仕事をしているからだろう。

                

息子は、学習院の付属高校から、学習院大学の法学部に入った。

将来、私のように、法曹になるのかは分からない。

私の後姿を見ているからか、ビジネスマンになる気はないらしい。

何を目指すかは、女房とは話し合っているらしいが、私には言わない。

           

私と息子との間に、親子の断絶があるわけではない。

まだ、私に相談する時期に来ていないのだ、と私は理解している。

私が息子に言っているのは、親である私を頼るな、ということである。

人間の力の無限性を信じるなら、私のささやかな力に頼る必要がないからだ。

              

それほど財産を持っているわけではないが、私の財産に頼るな、と言っている。

財産は社会に貢献した結果ついてくるのであるから、親を頼らず、財産を作れる。

自分で大いに社会に貢献すればいいからである。

その方が、爽快感を持った生き方ができると私自身の経験上、信じているからだ。

           

ついでながら、昨日のブログについて、3人の方からコメントをいただいた。

ブログに反響があることは、大変にありがたいことだと思っている。

そのコメントとそれに対する私の返事は、担当者に掲載してもらうことにした。

午前9時前後には、掲載されることになると思う。

                                                              

                    

            

                

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2009年4月 8日 (水)

楽しくなければ、本当の人生ではない

ありがたいことに、鳥飼日記から元気をもらえたという人が多いらしい。

多少は社会の人々の役に立つならと、鳥飼日記を小冊子にまとめることにした。

そのため、一日記を一頁に収めるついでに、内容の大幅な加除訂正を始めた。

今日は、そのひとつを紹介したい。

          

テーマは、「楽しくなければ、本当の人生ではない」というものである。

              

生きることは、喜怒哀楽に尽きる。

こう喝破したのが、陽明学の創始者、王陽明である。

これは、真実の人生は単純であることを教えている。

              

人生が楽しいか、つまらないかは、客観的には決まらない。

自分の考え方によって、楽しくもなり、つまらなくもなるからだ。

つまらない人生だと思うのであれば、自分の考え方がつまらないのだ。

             

考え方はコントロールできるから、誰でも楽しい人生を創ることはできる。

まず、自分の考え方ひとつで、楽しい人生が送れるのだ、と信じることだ。

自分は楽しい人生を送るために生まれてきたのだ、そう信じてもいい。

           

決して、自分の楽しい人生に疑いを持ってはならない。

そうでないと、自分が自分の人生を台無しにするからだ。

          

自分の考え方ひとつで、誰でも、人生を楽しいものにすることができる。

大自然は、誰でも、楽しい人生を送れるように創造してくれたのだ。

この大自然の法則からすれば、楽しくなければ人生ではない、ということになる。

そうならば、人間は誰でも、楽しい人生を送ることが真実の生き方なのである。

             

この人生の真実の姿を知れば、生まれてきたことを感謝したくなる。

楽しさに溢れる生き方ができる自分であることを証明するために、人生はある。

これが、真実の「人間の証明」なのかもしれない。

         

楽しくなければ、本当の人生ではない。

生まれてきたことに感謝したくならなければ、本当の人間ではない。

                                    

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2009年4月 7日 (火)

桜は散ってこそ桜

桜は、今、満開である。

ただ、満開になったため、風があると花びらが散り始めている。

数日経つと、短い期間の中で、その美しさを見せてくれた桜のシーズンも終わる。

そして、桜は、来年の桜のシーズンまで待機することになる。

                

桜は散ってこそ、桜なのである。

桜の花が散らなかったら、桜の美しさに人は感動するだろうか。

1年中、美しい花を咲かせている桜を見物するために人は集まるだろうか。

いずれも、否、と答えるだろう。

             

桜は、美しい花を咲かせて、短い期間で散るゆえに、美しさが際だつのである。

美しい印象を残して散るゆえに、人々に、もののあわれを感じさせるのである。

ある意味では、散ることに最高の価値があるともいえる。

                

桜の散り際の美学から、歌手だった山口百恵さんを思い出す。

人気の絶頂期に、衝撃的に引退した。

あたかも、桜の満開期に、散る桜の印象が重なる引退の仕方である。

その散り際の鮮やかさが、人々の心に鮮烈な印象を残したのである。

                     

人間も、桜の花が散るように、必ず死を迎える。

人間にも必ず散る時期が来ることが、最高の価値なのかもしれない。

散る時期が来るという有限さを意識するため、散るまでの生き方を考えるからだ。

どうせ散る人生なら、散るまでの間、美しく生きようと思うことができるからだ。

          

散る以上、人生は二度とない、そう思えることから、人生の意味を考える。

そのことから、人間とは何かを考え、人間に与えられた考える力に気づく。

考えることで、無限のものを生み出す力を与えられたのが人間だと気づく。

しかも、人間は社会的な存在で社会に役立つために生まれてきたと気づく。

             

そこから、その力を社会に有用に活用しようとする動機が生まれる。

これが生きがいであり、人生を輝かせる源である。

このように、人生を輝かせ、満開の桜のように美しく生きることができる。

このような美しい生き方の基礎に、桜のように散るということがあるような気がする。

             

桜の美しさの根源を探ると、人生の奥義にたどり着くかもしれない。

             

                

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2009年4月 6日 (月)

ようやく、仕事偏重から、家庭とのバランスが取れてきた

昨日は、家族で銀座に出た。

息子のための買い物があったからである。

昔の我が家からすれば、信じられないことであるが、家族で行動することが多くなった。

         

ほんの数年前まで、私は仕事人間で、家庭を大切にしていたとはいえなかった。

平凡で高い能力があるとはいえない私が弁護士になったのが42歳である。

結婚したのも、司法研修生のときで、40歳を超えていた。

そのため、弁護士になったら、相当頑張らないといけない状況にあった。

                 

その結果、家庭を犠牲にし、自分のほとんどの精力を仕事に投入したことは確かだ。

家族が寝ているときに家を出て事務所に向かい、家族が寝ているときに帰宅する。

とくに、独立後は、仕事と結婚した感があった。

土曜日でも、日曜日でも、事務所に出ては仕事をしていた。

              

息子が小さいとき、私を怖がっていた。

いつだったか、女房が買い物に出て、息子と私が二人きりになったことがある。

そのとき、息子は泣き続け、ついには、女房の母親にSOSの電話を入れた。

これには正直参った、家庭は崩壊しているのではないか、と思ったものである。

                  

このことは、今でも、息子は良く覚えているようで、心の傷になっているのだろう。

息子と遊んだことの記憶はわずかしかないのも、確かだ。

これでは、息子に好かれるのは無理というものである。

                    

息子がある所で、嫌いなものは何か、と聞かれたときの回答がある。

「ナスとお父さん」

このことを女房から聞かされたときは、本当にがっかりしたのは覚えている。

それでも私は気にしなかった、将来においてそれを逆転できると思っていたからだ。

                  

この点は、女房に感謝しなければならない。

女房は、息子に向かって私を批判せず、尊敬の対象となるよう心配りしてくれた。

そのため、事務所の行事には、息子を参加させ、私の後姿を見せてくれた。

事務所の人達からすれば目ざわりだったと思うが、黙認してもらった。

              

お陰で、現在では、私は息子から嫌われてはいないようだ。

私の発想法を理解し、ある状況の場合に、私ならどう答えるかを言い当てられる。

私自身が驚くぐらい、私の考え方を理解している。

ありがたいことに、息子に、私の遺伝子を承継してもらったような気がしている。

              

この、2、3年、家族の比重が大きくなってきた。

今でも、仕事中心であることは確かだが、家族と過ごす時間が多くなった。

意識しているというよりも、自然にそうなったというのが正しい。

              

書斎をもてるようになったので、早朝に自宅で仕事ができるようになった。

そのため、家族の寝ている間に事務所に出ることもなくなった。

当事務所の人員が充実し、弁護士等のレベルが驚くほど向上した。

              

嬉しいことに、私よりも能力が上である人達が多くなってきた。

私は誰にこの仕事を任せればいいのかを決めるだけ、という場面が増えた。

私自身がやる弁護士業務を絞り込めるので、心に余裕が出てきている。

           

さらに、経済的な面での余裕もある気がする。

数年前までは、私の頭の中では、常に資金繰りのことを考えなければならなかった。

今は、当事務所も良い案件に多数恵まれるようになって、経済的にも安定してきた。

そのため、資金繰りは考えるが、少なくとも、それで苦しむことはなくなってきた。

                    

仕事と家庭は、両立することが望ましい。

現在私は、運よく、仕事と家庭とは両立しているように思える。

女房がたまにぽつりと言う言葉からそう思ってるのである。

「今の私って、最高に幸せ」

                 

弁護士として社会に認められ 事務所が発展し、経済的に安定する。

この長い期間の仕事に偏重した時期を経て、今ようやく、

仕事と家庭とのバランスが取れる時期にたどり着いた感じである。                                  

今後は、このバランスを図りながら、今後も青春を味わえる人生を歩みたい。                                  

                 

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2009年4月 5日 (日)

早起きは3文の得、は嘘か?

昔から、「早起きは三文の得」と言われている。

ベンジャミン・フランクリンは、早起きに効用があると言っている。

私も自分の体験上、早起きは大いなる効用があることを実感している。

両親による私への最大の遺産は早起きの習慣、そう信じている。

                     

ところが、この早起きの効用を否定する論文があるらしい。

日本睡眠学会理事である医師の3月1日付ブログで紹介されている。

その医師は、東京ベイ・浦安市川医療センターの神山潤センター長である。

子どもの早起きをすすめる会発起人でもあるようだ。

                     

早起きの効用を否定する論文は、前記のフランクリンの説を検証しようとしたらしい。

そのため、65歳以上の1229名の男女を調査対象にしたようだ。

早起きの人とは、午後11時前就寝、午前8時前起床と規定した。

夜更しの人とは、午後11時以降就寝、午前8時以降起床と規定した。

            

この早起きの基準を見ただけで、この調査は意味がないと、直感した。

午前8時前であれば、午前7時前後の起床であれば早起きになる。

私の感覚から言えば、とても、早起きとはいえない。

午前7時前後に起床しても、早起きの効用は期待できないからである。

                  

実際、この調査結果だと、早起きの効用はない、というものだった。

すなわち、健康、知的面、死亡率では差はなく、

むしろ、収入は夜更し組の方が多かったという結果のようだ。

                

「ある日、夜九時に子どもと一緒に寝てしまった。

目覚めたら朝四時だったので、仕事をしたら、夜の半分の時間で終了。

衝撃的だった。」

           

早起きの効用に目覚めた、イー・ウーマンの佐々木かをり社長の言葉である。

4月4日付日本経済新聞の「早起きでとくしてますか?」に紹介されていた。

早起きを習慣とした佐々木社長は、朝に仕事をする効用を次のように述べている。          

「同じ残り仕事でも、朝だと先取りをしているような気分で前向きに取り組める。

                  

この「前向きに」というところが重要である。

幸福か否か、成功するか否かを決定づけるのは、前向きな心かどうかだ。

毎日のスタートに、前向きになることは、幸福と成功を必然的にする。

               

早起きにおける起床時間を考えるには、健康と仕事では異なるであろう。

健康のためなら、午前6時前後の起床でも、早起きの効用はあるだろう。

健康のための散歩、運動の時間を早朝に確保できるからである。

              

仕事、その成功という面では、午前4~5時の起床で、初めて効用がある。

ある程度、まとまった仕事をこなすには、それなりの時間があるからである。

早朝に、まとまった時間をもてることで、生産性、創造力を発揮できるのである。

                

このように、早起きの効用という観点から、早起きの時間を考える必要がある。

神山先生のブログでも、子ども(4-6歳)の早起きの効用を書いておられる。

早起きの子どもは、ひきこもり・不安・攻撃行動が少なかったということである。

夜更しのこどもは、特に、上記のような問題行動が多く見られたという。

             

いずれにしても、フランクリンの早起きの効用を説く言葉を否定する論文があるが、

フランクリンを聖賢のひとりとして尊敬しているので、思うことがある。

聖賢という人物を理解するには、平均人を標準にしてはならない、ということだ。

そうでないと、人物にたいする尊敬、憧憬というものが湧いてこなくなるからだ。

                        

青年は、雲の上にいるような人物を尊敬し、憧憬する。

それによって、心は上を向き、向上心が芽生える。

その雲の上という夢・志を目指す青年が成長することで、社会が発展する。

平等主義的な平均値中心の発想だと、社会は発展しないだろう。

                

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2009年4月 3日 (金)

料理の神様に出会った

昨夜、料理の神様に出会った。

料理の神様の名前は、盤鹿六雁命である。

「日本書紀」にその名が記されているらしい。

             

その神様を祭神とする神社が、高家(たかべ)神社である。

日本唯一料理の祖神を祭り、千葉県南房総市に所在している神社である。              

調理関係者、味噌醤油などの醸造業者が信仰している神社らしい。

そこでは、年2回、日本料理の伝統を伝える包丁式が行われているようだ。

               

この料理の祖神を知ったのは、偶然のことである。

毎年1回、一緒に食事をする料理研究家がいる。

その方から、私の誕生日の祝いの食事会の提案を受けた。

お互い忙しいので、やっと、4月に日程を入れた。

             

その際、どこの店で食事するかが問題となった。

その方の提案された店も、美味しい料理を出すので心が動いた。

その提案に対し、不思議な感覚であるが、私が急に行きたくなった店があった。

そこで、私が提案した店で食事をすることになった。

              

その店が「六雁」という銀座4丁目近くにある店である。

実に、美味しい創作料理を出してくれる。

しかも、使っている器がなかなかどうして素晴らしい。

さらに、料理人等店で働いている人の気遣いが心地よいのである。

                                       

誉めすぎといわれるかもしれないが、一度利用されると良い。

私の言葉が本当であることが分かるだろう。

この店の「六雁」の名は、「盤鹿六雁命」という料理の神様に由来するという。

料理長から聞いたところ、毎年、高家神社にはお参りをしているという。

              

美味しい料理に舌鼓を打ちながら、この店で神様にであった気がした。

この料理研究家も、最近、高家神社にお参りをしたらしい。

その直後に、私を食事に誘ってくれた。

その際、私から「六雁」という店の指定があったので、偶然を感じたという。

              

あたかも、料理研究家のお参りの際の心が、私の心に波動を送った感じである。

その波動の影響で、私が不思議な感覚の中で、「六雁」を指定したかのようだ。

この店で、料理の神様に出会った感覚があった。

          

この店の料理長は、本当に素晴らしい。

料理に向けられた姿勢も立派であるが、客の私にも細やかな気配りがあった。

私がこの店に来るのは、1年ぶりだった。

ところが、その1年前のことを料理長は覚えていた。

                 

その際、私の母の創作料理の話をした。

私が好きだったのが、母のてんぷらで、2種類のものが特に好きだった。

1つは、ジャガイモのてんぷらである。

もう1つは、韮(にら)と白子を合わせたてんぷらである。

                    

料理長は、当方で依頼していないのに、この2種類のてんぷらを出してくれた。

まさに、懐かしいお袋の味である。

さらに、お袋への陰膳用の皿を出し、おふくろ用のてんぷらを用意してくれた。

これには思わず感動をしたが、これこそがおもてなしの心なのだろう。

               

料理の神様は、このおもてなしの心を持った料理人に宿るのではないか。

昨夜の料理のあと、お堀端をタクシーを走らせて帰宅した。

途中で、国立劇場、英国大使館前、千鳥が淵を通り、満開の桜を見た。

料理の神様に出会った余韻に浸りながら見る桜は、一段と美しく見えた。                  

               

このような余韻を与えてくれた昨夜の友と料理長に感謝したい。

その余韻は、今も残っている。

               

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2009年4月 2日 (木)

自分で自分を誉めてあげよう

昨日は、エプリルフール、つまり嘘をついていい、4月1日であった。

ところが、誰からも、嘘を言われなかった。

私自身も嘘を言うことをしなかった。

これは、なぜだろう。

              

日常的に嘘をいうのであれば、わざわざ、嘘を言っていい日を作る必要はない。

最近、偽装牛肉、偽装請負、偽装献金等、「偽装~」という嘘が蔓延している。

そのため、嘘を言うことの希少価値が大幅に下落したのかもしれない。

嘘を味わう楽しさよりも、嘘に反社会性イメージがつきまとうようになったからだろうか。

             

最近の不景気な状況の影響で、嘘で遊ぶ心のゆとりがなくなっているともいえる。

嘘にも効用があり、嘘で笑って元気となり、不景気風を吹き飛ばすほうがいい。

病院に見舞いに来てくれた人に、「大丈夫ですか、病状が悪化しているようですね」

などと正直に言われたいとは誰も思わない。

             

嘘でもいい、「元気になっているように見えますよ」といって欲しい。

日常会話でも、嘘でもいい、「このごろ、お若く見えますよ」と言って欲しいものだ。

私などは、誰も言ってくれないから、自分で自分のことをほめている。

正確に言えば、自分のことを、異常なぐらいに激賞している。

                      

誰にも迷惑をかけるわけではないのだから、遠慮しないで激賞したらいい。

激賞してくれるのは、自分ぐらいしかいないものなのだから。

他人を誉める人は少ないし、誉めるときも、遠慮しすぎるぐらいの程度で誉める。

人間って、お金のかからないものにケチるものなのである。

          

嘘も、笑いも、自己賞賛も、すべて、元気になるため、楽しく生きるためにある。

もっと、日常生活を楽しくすることに心を砕いた方がよいのではないか。

嘘を言えなかった昨日の自分を反省して、そう思った次第である。

                                  

           

             

                 

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2009年4月 1日 (水)

新人への言葉・・・すべての社会人への言葉だった

今日は4月1日、社会人一年生の出発の日でもある。

入社式で、新入社員向けて、訓示が行われることだろう。

この訓示では、社会人としてのあるべき姿が語られることが多い。

               

そのあるべき姿は、よく考えてみると、すべての社会人に向けられたものである。

3月30日付日本経済新聞夕刊で、新入社員向けの訓示についての文章があった。

京都銀行の柏原康夫頭取が書かれたものである。

すべての社会人の参考になるので、紹介したい。

     

入行式の訓示は、その内容を覚えている人はいないと実感されたようだ。

そこで、最近は、4つの言葉を書いた紙を配布しているとのことである。

その4つの言葉は、次のとおりである。

       

1つ目は、「親思う心にまさる親心、けふの音づれ何ときくらん」

吉田松陰の辞世の句である。

感謝の気持ちを忘れるな、というのが訓示の趣旨である。

確かに、感謝の心は、人生を幸福に生き、社会で成功するには、必須である。

           

2つ目は、「志あるところに道あり」という言葉である。

これは人間の本質を人生・仕事に生かせという趣旨の訓示である。

人間は、思う(志)ことを実現する本質を持つから、志を持つことは重要である。

目的、目標という志が、人生・仕事を確かなものにするのである。

     

3つ目は、「天網恢恢疎にして漏らさず」である。

天の網は荒いように見えるが、悪いものには必ず天罰が下る、という趣旨である。

天から常に監視されていると思えば、心を清めるしかなくなる。

コンプライアンスの原点となる言葉である。

             

4つ目は、「一隅を照らす」である。

与えられた人生、与えられた業務で輝けば、一隅を照らすことになる趣旨である。

一隅を照らすものは、人間国宝だと昨日の日記に書いたことである。

     

以上の全体を見れば、誰にでも当てはまることばかりである。

                    

                 

            

          

                      

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