2009年11月10日 (火)

愛は同じ方向を見つめることである

「愛はお互いを見つめあうことではなく、

ともに同じ方向を見つめることである。」

             

サン=テグジュぺりの言葉である。

見つめるものが、「同じもの」ではなく、「同じ方向」というのがいい。

愛する者のあいだでも、それぞれの個性を尊重するところがあるからである。

          

「社会の役に立つ」という同じ方向であれば、やることが違っていてもいい。

1人は、医者を志し、他のひとりは、随筆家を目指すのもでもいい。

各々目指すものが違っているが、同じ方向を見ているから、相互理解ができる。

これは友の関係というべきであり、、長続きする友情の関係である。

           

その意味では、サン=テグジュペリのいう「愛」は友情的なものといえそうだ。

妻は中年の男にとっては友である、という言葉もある。

この中年の男の立場からの愛のイメージなのであろうか。

                 

夫婦の長い生活を考えれば、友情的な愛がもっとも幸福な関係ではなかろうか。

今朝のことであるが、息子の帰宅が遅くなり、午前1時を回っても帰ってこない。

そのことに気づき、女房も私も、各々の思いで息子のことを考えた。

           

女房は、大丈夫だろうか、という心配の感情で息子を思う。

私は、「これも青春」という思いで、心配とは異なる受け止め方をした。

受け止め方は違うが、息子のことを考えるという方向は同じである。

この例は、愛というには似つかわしくないかもしれないが。

                  

「愛」の本質を私は知らない。

でも、「愛」を考えるなら、長期的に考えたいだけである。

持続性のない「愛」は、やりきれないからである。

その意味で、以前から、前述のサン=テグジュペリの言葉が気に入っている。

                 

               

         

                 

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2009年11月 9日 (月)

時は招き猫

時間とは面白いものだ。

10年前の自分と10年経った現在の自分とは同じ人間だろうか?

考え方を中心に考えると、10年の時間の経過で違った人間になっている。

10年前の私と現在の私は、考え方がまったく変わったからである。

         

さらに、現在の私と10年後の私を比較すると、違った人間になっている可能性がある。

私は、10年の時間の流れの中で、現在の考え方を変える可能性があるからである。

人間は面白いものである。

同じ人格でありながら、時間の経過の中で違った人間になれるからである。

                     

問題は、変わり方にも、良い変わり方と悪い変わり方があることである。

どうせ変わるのであれば、良い方に変わりたいものであり、それは可能である。

自分で、良い方だけを考えればいいからである。

                

今、自分の過去を後悔している人もいるだろう。

過去を後悔するような考え方で時間を過ごしたからである。

後悔する過去が悪いのではなく、過去を後悔するような時間の使い方が悪いのだ。

                  

でも、今後の時間の過ごし方で、過去を後悔しない自分に変わることができる。

後悔する過去を後悔しない過去と受け止めるように変えればいいだけだからである。

しまったと思う過去を今後に生かし、しまったと思わない自分に変わればいいのだ。

           

時は過ぎ行く。

ただ、その過ぎ行く時間を自分の未来を明るくするために使うことはできる。

これは、時間を招き猫のように福を呼ぶ味方にする方法である。

そうなれば、過ぎ去った時の上に幸福を築くことができる。

             

時の過ぎ行くままに、では幸福になれない。

時を過ぎ行くままにさせず、時の中に自分の幸福を浸み込ませる必要がある。

そうすることで、時を、福を呼ぶ招き猫のようにすることができる。

             

誰でも、時を招き猫のように味方にすることで、良い意味で違った自分になれる。

               

              

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2009年11月 6日 (金)

最高裁の法廷に立つと弁護士は成長する

最近、最高裁判所の法廷に立った。

地方裁判所や高等裁判所で法廷に立つ機会は多いが、

最高裁判所の法廷に立つ機会は、めったにない。

              

弁護士でも、一生、最高裁判所の法廷と縁がない人が圧倒的多数である。

私の場合は、すでに、5,6回、最高裁判所の法廷に立つ経験をした。

これは、多数の税務訴訟をしているお陰である。

                                     

最高裁判所が口頭弁論という法廷を開くときは、高裁判決が見直される場合である。

最高裁判所が高裁判決を維持する場合には、法廷を開かない。

今回の法廷は、私どもの依頼者が敗訴した高裁判決に関して開かれたものである。

                

法廷は80席ほどあるが、今回法廷は、ほぼ満席であった。

満座の中で、私どもの事務所の担当弁護士が、15分前後、法廷で意見を述べた。

話し言葉で、ゆっくり分かりやすく意見を述べたので、理解しやすかった。

内容も的を射ていたので、身びいきになるが、素晴らしい意見の展開だった。

                  

依頼者の会社側から、10人以上の人達が傍聴した。

私どもの事務所からも、10人以上の弁護士・秘書達が傍聴した。

法廷の終了後、傍聴した会社の人から、素晴らしかったとほめていただいた。

弁護士冥利に尽きるのは依頼者から感謝されることだから、嬉しいかぎりだった。

          

さらに、最高裁判所の外に出たときのことである。

意見を述べた弁護士に対し、傍聴した弁護士・秘書達から拍手が送られた。

法律事務所の経営者の私として、これほど嬉しいことはない。

法律事務所に一体感が生まれていることが分かるからである。                      

               

今回の法廷が終わったとき、知己の国側の主任代理人が挨拶に来られた。

そのときに言われた。

「あなたが弁論されるのだと思っていました。」と。

              

確かに、責任者である私が意見を述べるのが本来の在り方だろう。

しかし、従来から、私は、最高裁判所の法廷で意見を述べることはしていない。

今後も、原則として、私が意見を述べることはしないつもりである。

                  

その理由は、簡単である。

当事務所の若手弁護士に成長の機会を与えたいからである。                      

最高裁判所の法廷で意見を言う機会をもつと、若手弁護士は成長するものだ。

しかも、若手弁護士の周到な準備による意見は、依頼者に感動を与える。

                

若手弁護士の成長が、法律事務所の成長につながり、

それが、ひいては、依頼者の満足に、そして、信頼につながることになる。

ここに、私どもの成長と依頼者の満足・信頼の循環が生まれてくる。

この循環を創るのが、法律事務所の経営者である私の責任だと考えるからである。               

             

来年も、高裁で敗訴した判決につき、最高裁判所で口頭弁論が開かれることになった。

それも、税務訴訟に関するものである。

その際、弁護士だけでなく、担当税理士にも、意見を言う機会を与えようと思う。

それによって、弁護士はもちろんのこと、税理士も大いに成長してくれるだろう。

                  

来年のことをいうと鬼が笑うだろうが、来年も楽しい年になる予感がする。

             

                                  

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2009年11月 5日 (木)

無事な日々は、当たり前か、ありがたいか

昨日の夜、自宅で、女房と息子と夕食をとった。

断食後は、できれば、1週間は自宅で玄米食を食べたいからである。

そのため、久しぶりに家族での食事となった。

              

家族での食事は、当たり前の情景のようにみえる。

でも、よく考えると、そうではない気もする。

             

私は伊東で断食をしていたし、息子は神戸に泊まっていたようである。

それぞれ、新幹線での帰京である。

新幹線での帰京は当たり前にみえるが、事故がないのは当たり前ではあるまい。

JR西日本での事故を考えると、いつ、どこで事故が起きるか分からないからだ。

              

そういう意味では、私も息子も、無事に帰宅できたことに感謝すべきであろう。

日常の繰り返しの中で、我々は、当たり前の感覚になっていく。

そのため、当たり前の中にある、感謝すべき事柄を忘れがちになる。

本当は、無事な毎日こそ、大いに感謝すべきことに囲まれているのである。

                

おそらく、毎日のように空襲を受ける生活なら、無事な1日に感謝したくなるだろう。

戦後の日本は、戦争・戦乱から無縁な日々が今も続いている。

毎日の平和な生活が当たり前になり、平和であることすら意識しなくなる。

これは素晴らしいことであるが、同時に、平和な日常に無感動となる。

                      

我々は、当たり前の中にあるありがたさを思い起こすことが必要である。

家族が無事であることは、当たり前ではなく、ありがたいことなのであると。

今日も、無事に過ごせること自体、感謝すべきことなのであると。

                      

そう考えると、我々の毎日は、無感動な当たり前ではなく、感謝するものとなる。

同じ平穏な日常の日々を、当たり前と考えるか、ありがたいと考えるか。

そのいずれの考え方が、人生を幸せに生きられる考え方であろうか。

                                                               

              

             

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2009年11月 4日 (水)

断食で、以前よりも元気になった

伊東のサナトリウムでの断食を終わり、これから、東京に戻る。

今年の断食も、今回で終わりである。

あと1回、断食をする予定であったが、他の用事ができたので、だめになった。

でも、今年も、断食をして、体調が整えられてよかったと思っている。

           

ジュース断食は、穏やかな方法であるので、入りやすく、続けやすい利点がある。

私も、伊東のサナトリウムでの断食を、5、6年続けている。

そのお陰で、毎年、薄皮を剥がすように、徐々にであるが体調がよくなっている。

          

この徐々に、というのが素晴らしい。

小さな積み重ねが大きな変化につながる、という真理を実感できるからである。

もともと、早起きだったが、以前と比較すると、早起きが苦でなくなった。

断食を始める前の早起きは、習慣とはいえ、無理をしている面があったからである。

              

男で、ある程度の年齢にならないとわからないのが、男には前立腺の問題である。

小水の出が悪くなり、残尿感が残るのである。

断食のお陰で、前立腺の問題が消失した。

             

自分でも、驚くぐらいに、気力が戻ってきた気がする。

まだまだ、これからがんばるぞ、そう以前よりも強く思うようになった。

つくづく、気力は、体調とつながっていることを実感する。

                   

他にも、たくさんのことで、いいことがあった。

来年も、断食を続けたいと思っている。

断食を続けると、人間の素晴らしさを感じることができる。

自然治癒力という自然の恵みを実感するからである。

                 

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2009年11月 2日 (月)

人生に失敗なんてありえない

伊東のサナトリウムで断食している。

今、事務所に入ったが、サナトリウムからの出勤である。

今日の夕方から、重湯になるので、断食はそれまでのことになる。

              

さて、人生において、失敗の連続だと思っていた、というコメントが最近あった。

本来、人生に失敗なんでありえない。

未来がある以上、失敗を生かし、成長することができるからである。

             

人生には失敗がないのに、自分で失敗と勝手に決めつけているだけである。

自分が失敗と認めないで、次の成功に生かそうと考えれば、失敗でなくなる。

それを、自分の考えで無理やりに失敗だと決めつけるのである。

その結果、自分が自分自身を痛めつけ、苦しめているのである。

                

我々は、幸福になるために生まれてきた、という真理を知らないからである。

我々には、未来があれば、現在の考え方ひとつで、未来に幸福な人生を築ける。               

現在を幸福な考え方でつつんで、さらに幸福な未来を招くことができるからだ。

                

もう、自分を痛めつけることから卒業したいものである。

もっと、自分自身のことを理解したいものである。

我々は、自分自身で考えているより、もっともっと素晴らしい存在なのである。

                 

これから出かけるので、ここで筆を置くことにする。

           

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2009年10月30日 (金)

百獣の王ライオンよりも、我々が優れている

自分は幸福だと思う人もいる。

自分は不幸だと思う人もいる。

           

いずれも現実であるが、その原因を作っているのは自分自身である。

自分自身が、自分を幸福にし、自分を不幸にする。

そのことに気づくことから、本当の人生が始まる。

          

自分が不幸であることを、自分以外の原因だと思う人には、

まだ、本当の人生が始まっていない。

しかも、本当の人生を経験しないで死んでゆく人も多い。

これも、厳しい現実である。

        

本当に幸福な人生を送りたいのか?

そうならば、自分自身の本当の姿を知る必要がある。

自分自身が自分の人生の創造者だという真実の姿をである。

              

本当に幸福な人生を送りたいなら、自分自身で幸福な人生を創造できる。

この大自然の原理原則を受け入れることから始める必要がある。

これを「自信」というのである。

自分は幸福になれるのだという自信から人生が始まるのである。

        

この自信が、幸福な人生を送るための扉なのである。

この扉を自分で開かなければならないのである。

素直に、自分は幸福になれると信じるのである。

そうすれば、間違いなく幸福な人生を創造できるのである。

                       

そのために重要なことは、自分が素晴らしいことに気づく必要がある。

生まれることの奇跡を知るのでもいい。

あなたは、難しい言語である日本語を話していませんか?

                 

ノーベル賞を受賞した優秀な外国人だって喋れない日本語を喋っているのですよ。

赤ん坊のときに喋れなかったのに、今は難なく喋っているのではないですか。

これは、我々凡人にも、素晴らしい能力があることを教えてくれていませんか。

そのことを基礎にした教育法が、著名な音楽家を生んだスズキメソッドである。

                

日常生活を考えると、奇跡の集合見たいなものである。

料理は、やっている人から見れば、当たり前に見えるが、そうであろうか。

いろいろな素材を集めることからして奇跡ではないのだろうか。

買い物をすること自体、いろいろな知識の集積がなければできないからだ。

             

お金の意味を知り、そのお金と物との交換ができることを知らなければならない。

もちろん、お金の計算もできないといけない。

店に置いている多数の物から、買うものを選ぶ必要がある。

何を料理するかのイメージを持って、初めて、買うものが決まる。

             

カレーライスをイメージすると、どういう素材にするかの組み合わせを考える。

バナナも入れようか、いや、りんごを入れるほうが風味が出ることも考える。

そのとき、同時に、カレーの味、カレーの香りを想像し、

さらに、それを食べるときの家族の顔まで思い浮かべることができる。

               

これって、すごいことではないのか。

百獣の王であるライオンだってまねができないことだ。

俺様は速いぞとピューマが偉そうに言っても、カレーライスを作れないのだ。

                

日常の当たり前のことの中に、我々のすばらしさが秘められている。

ただ、我々が気づいていないだけなのである。

幸せの泉は、自分の中にすでにあることなのである。

日常の自分の素晴らしさの中に、すでに自信がセットされているのである。

                  

               

               

              

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2009年10月29日 (木)

誰でも、もっともっと幸福になれる

本当の自分の価値を自分で知っているのだろうか?

多くの人は、本当の自分の価値より、自分を低く見ている。

本当は、もっともっと高い価値があるのに、自分を非常に低く見ている。

素晴らしい価値のある人間なのに、自分でそれを拒否しているかのようである。

                                     

私の周囲には、社会的に高い価値があると見られている弁護士が沢山いる。

実際、私から見ると、素晴らしい弁護士になれる資質があると思える人が多い。

ところが、弁護士のほとんどは、自分を低く見すぎている現実がある。

そのため、自分の持っている力を出せず、高い価値を現実にできていない。

                                          

真面目であるがゆえに、難しいといわれる司法試験に合格している。

このように司法試験で意味があった真面目さが、弁護士になってから裏目に出る。

真面目であるがゆえに、合理性を超えたところにある目に見えない真理を信じない。

                  

目に見えないところに、社会を動かし、人生を決める不思議な真実がある。

真面目だと、その不思議な真実を認められないのである。

努力で難関といわれる司法試験を合格したため、努力に価値を見出すからだ。

そのため、目の前にある「目に見えない」飛躍のチャンスが分からないのである。

                  

世の中の不思議な真実からすれば、次のことが言える。

「チャンスはチャンスの顔をしていない」

実験の失敗はチャンスの顔をしていないが、ノーベル賞のチャンスだった例は多い。

病弱はチャンスの顔をしていないが、健康法の大家になるチャンスだった例も多い。

                

本当の自分は、現在の自分よりも、もっともっと大きな存在である。

換言すれば、現在よりも、もっともっと幸福になれるのである。

そのためには、自分はもっともっと幸福になれる存在だと信じることである。

信じるとは、もっともっと幸福な自分を想像しつづけることだ。

                

もっともっと幸福な自分になるには、努力以前に、目に見えない真理を知ることだ。

努力と運、どちらが、もっともっと幸福に近づくのに意味があるか?

努力と考え方、どちらが、もっともっと幸福に近づくのに意味があるか?                           

                

目に見えない真理からすれば、運や考え方がもっともっと幸福に近づく意味がある。

もっといえば、考え方が幸運をもたらし、幸運がもっともっとの幸福を招くのである。

私の著書である「考運の法則」で言いたかったのはそのことである。

             

幸福にいたる考え方を持たないで努力をすれば、

努力が空回りすることがよくあるものである。

最近多くなった「うつ病」が真面目な人に多いのはそのためである。

日本人は勤勉であるがゆえに、不幸になることもあることを知る必要がある。

                                      

誰でも、いつでも、もっともっと幸福になれる。

そのための「目に見えない考え方」があると、確信を持っていえる。

多くの人に、そのことに気づいてもらいたいのである。

                       

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2009年10月28日 (水)

通勤中に何を思うかで人生が変わるか

「多くを求めるならば、何も成長しない者と同じ程度の努力で巨人にまで成長する。」

これは、ドラッカーの言葉であるが、人間の特性を突いている。

              

一般には、努力の程度で大きな差がつくと思われている。

確かに、努力をしている人とまったく努力をしていない人とでは、差が出るだろう。

では、同じ程度の努力をしている場合には、差がつかないのか。

実は、その努力をする際の心の持ち方で圧倒的な差がつくというのである。

               

これは、同じ断食をする場合でも、心の持ち方で相反することになるのと似ている。

飢えをなくす気持ちでの断食では、健康を害する可能性が高い。

体質改善の気持ちでの断食では、完全な健康に至る可能性が高い。

同じ断食でも、餓死と健康という天国と地獄の違いがあるのである。

           

例えば、1時間の電車通勤をして、職場に行くとしよう。

A氏人は、通勤は決まりきったことなので、何も考えずに通勤していた。

B氏は「今日もきっといいことがあるぞ」、毎日、そう思いながら通勤していたとする。

             

A氏とB氏は、1時間の通勤という努力の程度で差はない。

A氏は何も考えず、B氏は「いいことがあるぞ」と考えている点が違っている。

この考え方の違いによって、A氏とB氏とに大きな違いが生じるだろうか。

                  

A氏とB氏の将来において、決定的な違いが生じる。

もちろん、B氏の未来は前途洋洋になる。

私はそう思う。

              

「今日も、きっといいことがあるぞ」という考えるときは、

心は「いいこと」に向いている。

言葉を換えれば、心は「いいこと」に敏感に反応するようになっている。

そうなると、日常の中に、「いいこと」と発見することが多くなる。

             

通勤する電車の中で、前の席が空き座れたとする。

B氏は、単に座れただけではなく、「今日はツイてる!」と受け止めるのである。

今日も通常通りの運行で、いつもと同じ時間に会社に到着した。

B氏は、「今日も無事に時間どおりに会社に到着できたが、いいことだ。」と思う。

                  

日常の当たり前のことが、「いいこと」に思えてくるものである。

そうなると、部下の女性がコピーしてくれるとき、「ありがたい」と受け止めるようになる。

そのため、「コピーをありがとう」と自然に心から言えるようになる。

部下の女性と心の交流が業務をスムーズにするだろう。

                

お客さんから、仕事をもらえるときも、当たり前だとは思わない。

仕事をもらえるのは、「いいこと」である。

そのため、「いいこと」である仕事をくださるお客さんに感謝の念が湧く。

その結果、「実にありがたいことである」、と受け止められるようになる。

             

このような受け止め方をすれば、仕事はしっかりやることになる。

その結果、お客さんから信用され、別な仕事につながることも少なくない。

さらに、お客さんによる信用の積み重ねで、大きな仕事を任せてもらえるようになる。

                            

通勤中に何を思い浮かべるか、この差は、人生を決定的に変えることになる。

通勤中に「いいこと」を思い浮かべる人は、他のところでも「いいこと」を思うものだ。

要は、常に「いいこと」ばかり考えている人になるのである。

こういう人には、すべてが「いいことに」つながるようになるものである。

                                                            

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2009年10月27日 (火)

人生は感謝の旅

我々が生まれてくる確率は250兆分の1で、

宝くじの1等に250万回連続で当たる確率と同じです。

そこから、次のように言えるのではないでしょうか。

     

「我々は生まれてくる確率が250兆分の1という奇跡だと分かったら、

この奇跡は大自然による大いなる恵みだと思いませんか。

大自然を神と呼ぶなら、神の祝福だと思いませんか。

我々は、誰ひとり例外なしに、神の祝福の中で生まれてきたのです。

         

その祝福は、我々が楽しい人生を送ることに対するものなのではないでしょうか。

奇跡である誕生を与えてくれた神が、我々に不幸を与える筈もないからです。

このように考えると、我々の人生は、

楽しく、喜びに満ちたものでなければならないはずです。」

             

この文章は、必要があって、最近、私が書いたものからの抜粋である。

この文章にあるように、250兆分の1という奇跡の誕生は偶然か、必然か。

偶然と考えれば、楽しみ、喜びを追い求めるだけでよいのかもしれない。

これを必然と考えると、我々の誕生には、それなりに意義があると考えることになる。

               

そこに哲学が生まれ、宗教が生まれ、あるいは芸術が生まれる。

大自然である神の創造した鳥よりも、人間は優れた飛行機を発明できる。

神が人間に与えた「考える力」が、人間に無限大の創造力を与えたからだ。

現在問題となっている環境問題は、人間の創造力の行き過ぎを限定しようとする。

                

この人間の考える力は、環境問題だけではなく、我々に人生に深く係っている。

考える力は、我々の人生に至上の幸福を与える力を持っている。

それと同時に、我々の人生を崩壊させる力も持っている。

                 

我々は、人生を幸福に生きるには、考える力のもっている意味を理解すべきだ。

考える力を、人生を素晴らしいものにするように活用する必要がある。

そのためには、我々の誕生を奇跡と知り、それに必然と捉え、

生まれた意味を考えて、心から感謝することが必要だ。

             

その感謝を忘れないなら、人生は喜びに満ちたものとなろう。

感謝には、その中に喜びの気持ちが充満しているからである。

その充満した喜びの気持ちが、人生に様々な喜びをもたらすのである。

             

「人生は感謝の旅であり、感謝は人生そのものである。」

このように考えるのが、考える力を喜びの実現に活用する秘訣だろう。

                

                 

                  

               

             

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